2018/08/21 江戸川橋散歩 03 大滝橋/関口芭蕉庵/胸突坂/水神社/永青文庫/東京カテドラル聖マリア大聖堂/歩道橋

このエリアでもまだ江戸川(神田川)沿いに西へ進む。
途中、椿山荘というホテルがあり、大きな庭園があるがそちらは今度細君と来ることにしよう。



◆大滝橋








◆関口芭蕉



 この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉 が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川 改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。
 享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
 芭蕉は、早稲田 田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の真筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓と
した。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
 芭蕉庵 の建物は、昭和12年(1937)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
 敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。





◆胸突坂



 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる、東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる。





◆水神社




 祭神は 速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)・速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)創建の年代は明らかではない。
 『江戸砂子 』には「上水開けてより関口水門の守護神 なり。」とある。
 我が国最古 の神田上水徳川家康 の命により、大久保主水(もんど)が開いた。井之頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰 おおあらいせき)を築き、水位を上げて、上水を神田、日本橋方面に通じた。
 伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕にたち、「我水伯(水神)成り、我をこの地に祀らば堰の守御神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった、神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。











永青文庫

中には入らなかった。
今度おもしろそうな展示をやっていたら来てみようと思う。




 この地は、中世室町幕府の菅領家の一門であり肥後熊本54万石の大名であった細川家の下屋敷跡である。細川家がここに入ったのは幕末で、当時は5千坪であったが、その後少しずつ拡張し、肥後細川庭園・永青文庫を含む神田上水から目白通りに及ぶ約3万8千坪の広大な敷地であった。
 永青文庫は、南北朝時代から現在に至る歴代細川家約700年の間に蒐集(しゅうしゅう)された細川家の歴史資料や文化財、」及び24代護立氏が蒐集した近代日本画、陶磁器などを以って昭和25年に設立された。
 昭和18年に登録博物館となり一般に展示公開されている。



東京カテドラル聖マリア大聖堂

2018/08/19
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180819/1534768280
この時の日記でうまく写真が撮れなかったところ。
建物反対側の歩道橋から良く見ることができた。


丹下健三の設計建築とのこと。




◆歩道橋

この歩道橋から大聖堂を撮った。
歩道橋の名前を書いたプレートがあったんだろうけど、撮ってくるのを忘れて歩道橋の名前がわからない(w




右側に見えるのが、椿山荘。




続く。