2023/12/23 茗荷谷・後楽園散歩 03 庚申坂/旧第六天町/徳川慶喜公屋敷跡碑/今井坂(新坂)/徳川慶喜終焉の地/橋/神田上水路

前のページからの続き。
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◆庚申坂

坂上



坂途中。



坂途中。



坂下。



 「小日向第六天町の北、 小石川同心町界を東より西へ下る坂あり・・・・略・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。 本名"庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申(かのえさる)の日 (60日ごと) 人が眠ると三戸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。 従ってキリシタン版はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・・・・両側の髪の間を上る坂あり・・・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』
 とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
  春の暮れがたの切支丹坂







◆旧町名案内 旧第六天町

 もと、 小日向村に属し、 正徳3年 (1713)町方支配となった。 神田上水堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。 その北側の前の町ということで、 第六天前町と称した。
 明治2年称名寺(しょうみようじ)門前を併せ、 同5年には旧大久保長門下屋敷、寺地、 先手組屋敷な
どを合併した。町名は、 第六天前町の前の字を省いて、 第六天町と町名を変更した。
 今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。 そして、 大正2年、 ここで波乱の一生を終わった。








徳川慶喜公屋敷跡碑







◆今井坂(新坂)

坂下。



坂上



 『改撰江戸志』 には、 「新坂は金剛寺坂の西なり、 案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、 別に仔細はあらじ、 或はいふ正徳の頃 (1711~16) 開けじと、」 とある。 新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、 「続江戸砂子』 に、 「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平(かねひら)桜 (今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。 これにより今井坂と呼ぶようになった。」 とある。
 この坂の上、西側一帯は、現在国際仏教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、 慶喜明治34年(1901) 以後住んだところである。 慶喜は自分が生まれた、 小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。 慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、 大正2年(1913) に没した。 現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。
 この町に遊びくらして三年届き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 超空(しゃくちょうきゅう))
(この町とは旧金富町をさす)







徳川慶喜終焉の地



 徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩徳川斉昭(なりあき)の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
 明治維新後、駿府静岡県静岡市)に隠居した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。


案内







◆橋

下は東京メトロ丸の内線。
橋名はわからなかった。





赤印にある橋です。
橋名がお分かりの方がいらっしゃいましたら教えてください。
(o*。_。)oペコッ







神田上水

 日本最初の上水といわれる 「神田上水」は、江戸時代の初期、 徳川家康の命をうけて、 大久保藤五郎忠行(主水)が開いた。 井之頭池を水源として、 目白台下の現在の大滝橋あたりに堰を設け、 川の水位をあげて上水として流し、余った水は、 神田川 (江戸川) に流した。
 上水は、水戸屋敷 (現在の小石川後楽園の地) を通し、 現在の水道橋東側で、 神田川を懸麺(かけひ)でわたし、 神田・日本橋方面に給水した。 この上水は、江戸時代から長い間、江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。 1901年(明治34) 6月、 飲用水としての給水を停止し、 その使命をおえた。
 この前の道路は、神田上水の流路で、開渠であったものを、 明治の初めに暗渠として道路としたものである。
この道を、 通称"水道通り”といい、旧町名に、水道町 水道端の名を残している。



旧金富町 (昭和39年までの町名)
 明治2年、 小石川金杉水道町の一部、 小石川富坂新町、 小日向金剛寺門前町、 多福院門前町の4町を合併した。
 町名は、金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。 明治5年、さらに付近の土地を加えた。
 金剛寺坂上に、 俗に鶯谷というところがあった。 ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(おおたしょくさんじん) (南畝)が住んでいた。 また、 小説家永井荷風明治12年、 旧金富町45番地 (現・春日2-20-25あたり)に生れ、 少年時代を過ごし、このあたりから伝通院周辺は、 荷風の心のふるさとであった。 小学校は黒田小学校(現・五中の地)を卒業した。
 この町に遊びくらして三年居き
  寺の墓やぶ深くなりたり (釈 超空(しゃくちょうくう))







続く。
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