この日記のエリアでやっと最初に設定したルートに戻ってきた。
想定外の設定をいっぱいしておいて良かった(w
◆茗荷谷町
古くは、小日向村の畑地であった。正徳(しょうとく)3年(1713)から町方(まちかた)の支配となった。
小石川台地と小日向台地の間を浅い谷を、茗荷谷と呼んでいる。江戸時代、ミョウガ畑が多かったからといわれている。
この町名は、この茗荷谷からとった。
明治5年、金杉水道町飛地(とびち)、旧大垣野村藩戸田淡路守(あわじのかみ)屋敷、七軒屋敷や十二軒屋敷などの武家地を合併した。
口上(こうじょう)を忘れて戻る茗荷谷(古川柳)
小日向1丁目東遺跡の発掘調査は、集合住宅建設工事に伴い平成二六(2014)年に実施されました。写真1は遺跡全景を写したものですが、さまざまな時代の遺構・遺物が確認され、複合遺跡であることが判明しました。
縄文時代の遺構は縄文時代早期の屋外炉が5基、弥生時代後期から古墳時代前期(五領式期)の遺構は竪穴建物跡5軒(写真2・3)、奈良・平安時代の遺構は竪穴建物跡3軒と土坑1基(写真4・5)、そして中世の陶器の破片が出土しました。江戸時代、寛永江戸絵図〈寛永十九・二十(1642・43)年〉や「御府内往還其外沿革図書」に拠れば、寛永十八(1641)年、調査地周辺は、井上筑後守政重が下屋敷(大名屋敷)として拝領します。江戸時代の遺構の内、17世紀初頭の遺構として土坑が確認されていますが、筑後守拝領以前の遺構と推定されます。寛永十七(1640)年、筑後守は宗門改役となり、正保三(1646)年、当該地は切支丹御用屋敷となり、現在は東京都指定旧跡です。第4図は創設当初の敷地の様相を描いたもので、その一部を拡大した第3図では住人の氏名が窺えます。元禄十四(1701)年、屋敷は縮小され(第5図)、さらに享保十一(1726)年に、敷地は縮小し、これらの三段階の切支丹御用屋敷の変遷を経て寛政四(1792)年に廃止されます。17世紀前葉から18世紀中葉までの遺構は、土坑が多く、遺構の種類に偏りがみられ、遺構数から、周辺地域に比べて緩やかな土地利用の実態がみてとれます。廃止後は、酒井、鈴木家等の幕臣の屋敷に分割されることが分かります(第2図)。第2・5図から、切支丹御用屋敷に北接する大草家の屋敷は切支丹御用屋敷廃止後もそのままであったことがわかり、また第5図の大草家の屋敷の左側には墓が描かれており、検出された3基の墓(写真6)とどのような関係にあるのかは今後の調査に期待したいと思います。また、18世紀後葉から19世紀中葉の遺構と遺物が最も多く、活発な土地利用の様相が窺えますが、幕臣の屋敷の時期にあたります。
このように小日向1丁目東遺跡の発掘調査の結果、切支丹御用屋敷に関わる遺構・遺物が確認されるとともに、当該地は縄文時代から現在に至るまで人びとが連綿として居住しており、住みやすい土地柄であることが明らかになりました。
◆切支丹屋敷跡
キリシタン屋敷は正保三年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。
最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保九年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政四年(1792)に屋敷は廃止されました。
称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡五丈程(約15m)、巾貳間貳尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを"水道通り"とか"巻石通り"と呼んでいる。
神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を"巻石蓋"と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
もと、小日向村に属し、正徳3年(1713)町方支配となった。神田上水 堀の土手の上に、第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで、第六天前町と称した。
明治2年、称名寺門前を併せ、同5年には旧大久保長門守下屋敷、寺地、先手組屋敷などを合併した。町名は、第六天前町の前の字を省いて、第六天町と町名を変更した。
今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年に、徳川最後の将軍慶喜が移って来た。そして、大正2年、ここで波乱の一生を終わった。
◆アルフレッサ
2018/02/24 江戸川区の平井でも見かけた東証一部の大企業さん。
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180224/1519560771
続く。