2020/12/05 築地・銀座散歩 06 森田座跡/山村座跡/商法講習所跡/銀座ライオン/元銀巴里跡/椿を持った少女像「はな」

銀座六丁目、7丁目をブラブラ。




森田座



 江戸時代、この地には官許の芝居のうち、江戸三座と呼ばれ、歌舞伎を興行した森田座の芝居小屋がありました。この辺りは木挽町五丁目と呼ばれており、森田座のほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋である土佐座がありました。これらの周りには芝居小屋が集まっており、賑わいを見せていたようです。木挽町の名は、江戸城築城時に多くの木挽職人(木材を大きな鋸で切る人)が居たことによるようです。
 森田座は、万治三年(1660)、森田太郎兵衛によりこの地に創設され、以後座元は代々「森田勘弥」を名乗りました。森田座は、堺町、葺屋町(現中央区日本橋人形町三丁目辺り)にあった、江戸三座中村座市村座とともに、天保十三年(1842)から十四年にかけて、猿若町一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目あたり)の町をつくり、そこに移されました。後に、安政五年(1858)「森田座」改め「守田座」となり、明治五年(1872)、現中央区の新富に移り、同八年に「新富座」と改称しました。以後、明治十二年の興行失敗から、同三十年までに「猿若座」「桐座」「深野座」「都座」などと頻繁に名称がかわったようです。明治三十年新富座に復名、同四十二年には松竹合名会社に買収され、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失し、森田座の血脈を受け継ぐ芝居小屋は途絶えてしまいました。
 平成十三年、ここから約1km北東の京橋二丁目遺跡から、森田座の入場券である木札が出土しました。我が国を代表する文化である歌舞伎の芝居小屋が中央区で発祥し、これに直接関わる考古資料として極めて重要なものであることから、平成十七年四月に中央区文化財として登録されています。







山村座

特に説明板などは見当たらなかった。



google mapのマークは上の写真のところ辺り。
コートヤード・マリオット銀座東武ホテルの敷地内になる。


山村座(やまむらざ)は、かつて存在した歌舞伎の劇場である。1642年(寛永19年)に江戸・木挽町四丁目(現在の東京都中央区銀座6丁目)に開かれ、河原崎座森田座(のちの守田座)とともに「木挽町三座」と呼ばれ、元禄年間に官許を受けた劇場として、中村座市村座森田座とともに「江戸四座」と呼ばれた。1714年(正徳4年)、同座を舞台に起きた「江島生島事件」の結末とともに官許没収、廃座となった。存続期間は72年間であった。木挽町を芝居の街とした、歴史上最初の劇場として知られる。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E5%BA%A7








◆商法講習所跡

一橋大学発祥の地。



商法講習所

  明治8年(1875年)この地に
  商法講習所を開設す
  これ現在の一橋大学の発端なり
    昭和50年9月24日

    百年記念に当り
      一橋大学之を建つ








銀座ライオン



 この建物は、昭和9年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され、1階でビヤホールを開店しました。
 建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した 2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁面には、初めて我が国でつくられた、ガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m、ヨコ575m、約250色のガラスモザイクが使われています。
 ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言われています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。
 戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和5年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。







◆元銀巴里跡



『銀巴里(ぎんパリ)は、1951年–1990年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶である。「東の銀巴里、西のラ・ベル・エポック武蔵野市吉祥寺 2009年10月31日閉店)」ともよばれた。
美輪明宏戸川昌子、古賀力、金子由香利、戸山英二、大木康子、長谷川きよし、宇野ゆう子、クミコらを輩出し、三島由紀夫なかにし礼吉行淳之介寺山修司中原淳一らが集い、演出に尽力した。
閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が、すべて常連客によって持ち帰られた。
跡地の銀座7丁目9番11号付近に石碑が立つ。
唯一のれん分けされた店が札幌市のススキノにあったが、2012年9月29日に閉店している。 』
銀巴里 - Wikipedia







◆椿を持った少女像「はな」



 銀座花椿通り商店街振興会が中央区と共に進めてきた環境整備事業の完成を記念して、多くの会員のまちづくりへの積極的な意思を結集しながら活動を推進いたしました。また、中央区とともに進めてきました環境整備事業の完成を記念して、道路愛称名である「花椿通り」にちなんで、平成5年3月にこの像を設置しました。







続く。