築地から北西にある銀座方面へ歩いてゆく。
このあたりは、江戸前期に松平采女正の屋敷があり、享保九年(1724年)の大火で焼けたあと日除地になって、俗に采女が原と呼ばれました。橋名の由来はここからきたものと思われます。
采女が原は、明治二年(1869年)に采女町と称する市街地となり、銀座煉瓦街と築地の外国人居留地との間に位置して和洋混合の新興市街地が形成されていったようです。
震災復興時に架け替えられた現在の橋は、当時意匠的に優れていたといわれるアーチが採用されました。また橋の下は昭和三十七年(1962年)に築地川から現在の高速道路に姿を変えました。
中央区では平成二年度に、幻のホテル”築地ホテル館”〔明治元年(1868年)、近代的な様式ホテル第一号として誕生し、栄華を誇ったが明治五年(1872年)に焼失〕と”銀座の柳”を題材にした意匠で高欄等を整備しました。
一度来たことがあった。
http://ovanrei.hatenablog.com/entry/20160916/1474248065
◆築地川采女橋公園
google mapのマークは上の柵の中をさしている。
こちらに詳しく載っていた。
東京都中央区の歴史 東京商工会議所発祥の地
◆電源開発本社
かなりお世話になっている。
最近株価がさえなくて損失が(涙
がんばって!!!!
◆佐久間象山塾跡
場所は電源開発の入っているビルの脇だった。
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町五丁目(現在地付近)に塾を開きました。 嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~四十人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。
木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。
google mapのマークは上の写真のところ辺り。
こちらに詳しく載っていた。
東京都中央区の歴史 狩野画塾跡
続く。