2018/12/18 01 お堀散歩 東京駅/お堀/国立公文書館/集英社/神保町駅/専修大学/西小川町/水道橋駅

24時間勤務アケに、東京駅から国立公文書館のある竹橋を景種子手水道橋駅まで散歩。
天気も良くていい散歩になった!



◆東京駅

東京駅地下を少し探検してみる。
二重橋駅近くに出ようと思ってたんだけど、日比谷駅近くに出る(-ω-;)ウーン
少し散歩の距離が長くなった(w



◆お堀

天気もいいし景色もいいね!







毎日新聞




国立公文書館

次の日記で書きます。




集英社

外堀方向に歩いていく。
神保町駅の近くに集英社があった。


この時の集英社とは違う建物かな?
ovanrei.hatenablog.com




神保町駅




専修大学

専修通りを歩いていたら、小さな公園?があって、この門があった。
専修学校時代の門とのこと。




 専修大学の前身である「専修学校」は、明治13年(1880)京橋区木挽町(現在の中央区銀座3丁目)に誕生し、明治18年(1885)7月神田区今川小路2丁目8番地(現在の神田神保町3丁目8番地)に移転し新校舎を設置しました。
 この当時の正門が黒渋で塗られた冠木門であったことから、「専修学校」の愛称として黒門とよばれたものでありました。黒門は明治40年(1907)の校舎改築により姿を消すこととなりますが、その名称は現在の専修大学の象徴として生き続けています。
専修大学創立130年にあたり専修大学育友会のご厚意によりここに102年の時を経て黒門が復元しました。





~幕末・維新の動乱を駆け抜け、太平洋を渡った創立者たち~
専修大学は、1880年(明治13年)の創立以来、時代が求める人材を育成してまいりました。
130年という長い時間の中で、世界は大きく変りましたが、新たな日本の礎を築くため、わが国に必要な人材育成に情熱を注いだ創立者たちの思いは、現在も綿々と受け継がれています。
大学が持つ使命の一つ、人材育成。
これからも、社会知性開発大学として、社会に貢献する専修人を輩出していきます。




相馬永胤(そうまながたね)  1850年嘉永3年)~1924年大正13年
彦根藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
途中、学費調達のため一時帰国。コロンビア大学卒業後、イェール大学大学院で法律学、経済学を学ぶ。
専修学校を創立。初代校長、初代学長を歴任。『米国紐育州訴訟法』などを著し、法律科の講義を担当。この間、司法省附属代言人、判事、横浜正金銀行取締役、同頭取などを歴任。第1回衆議院議員選挙にも当選。





田尻稲次郎(たじりいなじろう)  1850年嘉永3年)~1923年(大正12年
薩摩藩士の家に生まれる。1871年から1879年までアメリカに留学。
イェール大学卒業後、同大学院で経済学、財政学を学ぶ。
専修学校を創立。英国マクラウド原著『銀行史』などを著し、経済科の講義を担当。専修学校で教鞭をとるかたわら、東京大学講師となり理財学を講義。
大蔵省銀行局長、大蔵省主税局長、大蔵次官、大蔵総務長官、会計検査院長、京市長などを務めた。法学博士。





駒井重格(こまいしげただ)  1853年(嘉永6年)~1901年(明治34年
桑名藩士の家に生まれる。1874年から1879年まで旧桑名藩主・松平定教に随従し、アメリカに留学。ラトガース大学で経済学を学ぶ。1879年帰国。
専修学校を創立。英国グーシェン原著『外国為換論』などを著し、経済科の講義を担当。大蔵省准奏任御用掛となり、大蔵省参事官、大蔵省国債局長などを歴任。高等商業学校(一橋大学の前身)校長を務め、名校長として慕われた。






目賀田種太郎(めがたたねたろう)  1853年(嘉永6年)~1926年(大正15年)
幕臣の家に生まれる。1870年から1874年までアメリカに留学。
ハーバード大学卒業。1875年留学生監督として再渡米、1879年帰国。
専修学校を創立。『私訴犯法』などを著し、法律科の講義を担当。
司法省附属代言人、判事、大蔵少書記官、大蔵省主悦官、横浜税関長、韓国政府財政顧問、枢密顧問官も務めた。





◆西小川町




 ここはかつて西小川町(にしおがわまち)と呼ばれていました。「小川町」の名前は、このあたりに清らかな小川が流れていたから、あるいは「小川の清水」と呼ばれる池があったから付けられたなどといわれています。
 江戸時代の小川町は、現在の千代田区神田界隈の西半分を占める広大な武家地をさす俗称でした。当時の武家地は町名をもっていなかったため、西小川町という町名が正式に誕生したのは明治五年(1872年)のことです。小川町(現・神田小川町)に対して、西側に位置していたことから名付けられました。
 明治以降、町内には獨逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう)(のちの獨協大学品川弥二郎らが設立)をはじめ、東京看護婦学校、数理学舎、独乙学教授所(どいつがくきょうじゅじょ)、明倫義塾(めいりんぎじゅく)、大日本新法典講習会、大日本理科講習会など、学校や私塾が次々と建てられました。かつて武家屋敷だったこの界隈は、維新以降、“文教の町”に生まれ変わったのです。
 昭和九年(1934年)、区画整理により西小川町二丁目と今川小路三丁目の一部が西小川町一丁目と合併して、西神田二丁目となります。昭和四十二年(1967年)、このうち旧西小川町二丁目の区域が分割されて、西神田三丁目が生まれました。





水道橋駅

とりあえずゴールの中央・総武線水道橋駅



最初の東京駅の失敗がなければもう少し早く着いたかな?
思っていたより歩数が多くてビックリした。
この後はいったん家に帰ってまた出かけるのでした。




続く。