2022/02/28 稲荷町散歩 05 使教寺/等覚寺/光明寺/光蔵寺/吉祥院/長遠寺/妙経寺

どんどん北東へすすみ、東京メトロ銀座線稲荷町駅周辺へ。




◆使教寺

門前でタバコ吸っている人がいたので外からお参り。


葛飾北斎

 葛飾北斎(1760~1849)は江户後期の浮世絵師で、葛飾流の祖です。宝暦一〇年本所割下水に生まれ、鏡師中島伊勢の養子になりはじめ中島氏を名乗ります。一九歳の時に勝川春章の弟子になり、勝川春朗と改名します。役者絵や相撲絵を描きます。春章没後勝川を離れ、狩野派、漢画、土佐派、琳派、馬江漢の洋風画.銅版画なども学びます。北斎は奇行に富んだ人で、居を九十三度、号を三十数度変之たとされます。肉筆画、版画などに手腕をふるい、特に風景画は称賛されてい主す。「富嶽三十六景」などが知られ、フランス印象派に影響を与えたとぃわれます。









◆等覚寺











光明寺











◆光蔵寺










吉祥院











長遠寺



 二宮彦可は江戸時代後期に活躍した医師。宝暦四年(1754三河国(愛知県)岡崎藩主の侍医で国学者でもある小篠敏の長男として、遠江国(静岡県)浜松近郊の又楽村に生まれる。名は献。字を彦可・齢順といい、号を印又米・擁鼻と称した。幼少時に乳母から梅毒が感染して、病弱のため廃嫡となるが、明和四年(1767)同藩の口中科医である二宮元員の養子となり家督を継いだ。
 明和六年(1769)藩主の転封により石見国(島根県)浜田に移る。十九歳の頃から各地で医学を学び、口中科を山県良班(広島)、内科を忠美三自(広島)、眼科を三井玄猫(大坂)、産科を賀川玄五月 (京都)、内科を山脇東門(京都)に学んだ。また赤松漁洲(赤穂)、湯浅常山(岡山)、亀井南漠(福岡)を歴訪している。天明八年(1788)には長崎に留学して吉雄耕牛にオランダ外科を学び、さらに吉原杏陰境のもとで、収骨術の秘訣を伝えられた。
 寛政三年(1791)帰国して浜田藩主の侍医を務め、同五年(1791)藩主に「随行して江戸に赴き、木挽町五丁目(中央区銀座)に住居した。文化五年(1808)に『正骨範』二巻を出版したが、これは吉原書法陰支原に学んだ整骨術に改良を加え、中国・西洋の諸書を参考としてまとめたもので、骨術の古典として評価されている。
 文政十年(1827)十月十一日没。七十四歳。浅草長遠寺に葬る。法号は従院了服目治居士。墓碑は大正十二年(一九三二)の関東大震災などで焼失し、共同墓地に埋葬される。ほかに一族の墓碑の一部が残る。


石塔など

左側にある塚は何の塚だろう?
「踊」かなあ?


山門










◆妙経寺

安穏廟


銅鐘



 妙経寺は山号を寿量山という、日蓮宗の寺院である。『御府内寺社備考』によると、当寺は天文四年(1535)に武蔵国芝崎村(千代田区大手町)に建立され、慶長十六年(1611)に現在地に移転した。
 銅鐘の大きさは、総高151.5cm、口径96cm。宝暦十三年(1763)、四代西村和泉守藤原政時によって鋳造された。
 西村家は江戸時代中期から大正時代にかけて鋳物師を務めた家で、全国に多くの作品を残している。神田鍛治町一丁目(千代田区神田)に居を構え、代々「和泉守藤原政時」を名乗った。四代は享保五年(1720)に三代の実子として生まれ、市郎兵衛.伊右衛門を称し、江戸府内の代表的な鋳物師であった。
 銅鐘の縦帯に「武陽浅草新寺町寿量山妙経寺十世日隆」の陽鋳銘があり、 鋳造以来当寺に伝来したものである。平成十年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載
された。


山門










続く。