2022/01/25 錦糸町・両国散歩 03 本所割下水/亀沢町ガード/緑一丁目歩道橋/榛稲荷神社/横綱横丁/芥川龍之介成育の地/両国駅

清澄通りを南下し総武線の高架をくぐる。
その後は線路沿いを西へ進んで両国駅でゴール。





◆本所割下水(わりげすい)



 割下水とは、かつてここを流れていた下水の呼称です。1650年代末以降の本所開拓の中で開鑿(かいさく)された下水で、かつてはその両側に道がありました。あの有名な葛飾北斎も、割下水付近の住人だったようです。
 この付近は、いわゆる本所七不思議の舞台の一つとして知られてきましたが、特に近年は葛飾北斎ゆかりの地として有名になっています。
 割下水は昭和初期に暗渠(あんきよ)となり、平成2年から5年にかけての歩道整備を経て現在のような道路となりました。
平成6年8月以来、「北斎通り」の名前で親しまれています。












総武線(12)亀沢町ガード














◆緑一丁目歩道橋

下は清澄通り














◆榛稲荷神社


古く此の地一帯を榛馬場と称し此神祠を榛稲荷社と称し奉れり。関東大震災の折り社殿並に其の榛樹炎上焼失す。神殿復興起工際旧蹟地より古碑を発掘す。
碑文 和銅2年総国当亀澤村
亀澤稲荷神社
とあり、往昔斯く奉称せしも後成は榛稲荷神社と称し奉□□□□。
大東亜戦争必勝を祈願し奉り東京の実現を紀念すると共に其の事由を後世に傳へむと敬神講員一同相議之れを建つ。


葛飾北斎居住跡

 この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので、「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
 榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は、「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の龍、鮓の竹の皮など、散ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(「葛飾北斎伝」)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
 北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確にわかっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
 また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。


榛馬場跡

 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。
 勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
 天保8年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。
 葛飾北斎もお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。













横綱横丁

商店街♪













芥川龍之介成育の地



 芥川龍之介生育の地  両国三丁目二一番四号
 芥川龍之介は、明治二五年(一八九二)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新敏敬三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七ヶ月で、当時本所区小泉町一五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。
 芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一忠節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。
 明治四三年(一九一○)一九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学しました。明治三八年(一九○五)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、同四三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正二年東京帝国大学に入学、同五年卒業しました。
 大学在学中、同人雑誌「新思想」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れました。
 昭和二年(一九二七)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。
 龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。
 芥川龍之介賞
 通称芥川賞。新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。昭和一○年(一九三五)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。



 大正時代を代表する作家芥川龍之介は、この地にあった母の実家芥川道章の家で、一歳に満たない頃から十八歳で新宿に転居するまで暮らしました。三歳の頃、自宅が改築された様子や、新しい家の庭に榧や木斛、五葉の松などが植えられていたころを記憶し、特に蝋梅を愛したと述べています(「追憶」)。龍之介はこの家で、幼いころから読書や文字の練習、昔話を聞くなどの教育を受け、大切に育てられました。
 近くの回向院の敷地には、龍之介が通った幼稚園と小学校(現在の両国小学校)があり、境内で遊んだことも「本所両国」や「追憶」から知ることができます。小学校では友人たちと回覧雑誌を編集し、龍之介は数多くの文章を執筆、挿絵なども書きました。また小学校最後の夏休みの日記には、「今朝起きぬけに日頃愛玩している樫のステッキ(木刀にちかい)ふりまわしながら大川端を散歩しました。緑の意図をたるゝ柳やまつくろな木立や活々した川の流れやカニの甲らをならべたよーな石崖などがのどかな朝日に照らされて一斉に喜びの聲を上げて之をむかへるよーにかゞやき渡っています。」(原文通り)と自然の残る隅田川の美しい情景を記しました。
 また、墨田川での水泳に夢中になっていたことを多く書いており、普通の少年らしい一面もうかがえます。
 作家芥川龍之介の原点は、ここ両国の地で刻まれていたのです。












両国駅

ゴールの両国駅



ホームから見た両国国技館








検索すれば検索するたびに新しい史跡が見つかるね。
際限がないね・・・・・。
高低差はなく散歩しやすかった。
今回は良い散歩コースだったなぁ。