京成線の高架をくぐって反対側(北側)へ。
今度はJR綾瀬駅のある北へ向かって歩く。
google mapには載っていなかった。
場所は青い現在地を示すマークのところあたり。
◆妙源寺
安積艮斎(あさかこんさい)墓
安積良备(1791~1861は、江戸時代後期の儒学者飞す。名を重信または信といい、艮斎または見山楼と号しました。陸奧国安積郡の神主の家に生まれ、のちに江戸に出て佐藤一斎、,次いで林述斎に学び、文化十一年(1814)、神田駿河台に塾を開きました。天保七年(1836)二本松藩丹羽家の藩儒となり、同一四年、昌平黌教官に抜擢され佐藤一斎とともに育英の任に当たりました。はじめ、本所番場町妙源寺に葬られましたが、関東大震災後、現在の場所に移転されました。
※お墓まではいかなかった。
安政2年(1855) 10月2日夜、直下型大地震が江戸の街を襲いました。地震の規模はマダニチュード 6.9程度で、死者は約7千~1万人にも上ると伝えられています。葛飾区の中ではとくに亀有付近が大さな披害に見舞われました。
この石造題日塔は安政大地震による死者を供養するために、歌舞伎俳優 森田勘弥の妻が発起人となって建てたものです。
妙源中はその当時、本所番場町 (現在の墨田区東駒形)(にあり、大正12年(1923)に当地に移転してきました。この塔もその時に移ってきたものと思われますが、西新小意東光寺の石造地藏像や細田稲荷神社の石造鳥居などとともに、未曾有の災害に対処した当時の様子を今に伝えています。
東條一堂は江戸時代後期の儒学者で、安永7年(1778)上総国埴生郡八幡原村(現在の千薬県茂原市)に生まれました。9歳の時に医者を開業した父に従って江戸へ出、16歳で志を立てて京都に上り皆川洪園に入門、22歳で江戸に戾りました。文化2年(1805)本郷駒込に塾を開設、同13年湯島、文政4年(1821)には神田お玉が池に移しました。塾には、身分の隔てなく学ぶものが相次ぎ、幕末期の老中阿部正弘も内治外交の施策について教えを受けました。安政4年(1857)7月13日80歲で没し、本所の妙源寺に葬られました。妙源寺は、もとは墨田区東駒形にありましたが、大正12年(1923)の関東大震災で罹災し当地に移転、この墓も同時に移されました。
昭和32 年(1957)には一堂の業績が刻まれた百年記念の碑が建立され、昭和41年(1966)には遺著刊行の碑も建てられました。
◆堀切天祖神社
堀切八幡神社
神楽殿
続く。