2021/10/07 堀切散歩 04 隆照寺/祠/堀切菖蒲園/堀切菖蒲園通り/極楽寺/妙徳稲荷/堀切二丁目公園

まだ堀切菖蒲園南側エリアを散策。




◆隆照寺

入りづらかったので外からお参り。










◆祠










堀切菖蒲園

以前菖蒲の時期に来たことがあるのだが、「はてな」に日記が残ってない・・・。
mixiに残っていた。
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 東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸試合に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
堀切の花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
 記録に残る花菖蒲栽培の始まりは小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801~1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
 天保年間(1830~1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間え評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
 また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ転出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
 明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
 しかし、都市化の進行に伴う水質汚染第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
 終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
 そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。



 この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804~1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。
 堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。
 堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には「東京遊行記(明治39)「東京近郊名所図会(明治43)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。



渡辺千秋の歌碑



 この碑には、明治から大正初期の宮内大臣渡辺千秋が武蔵園に来遊して詠んだ和歌一首が刻まれています。

     ほりき里能さとのあやめは老まつに
          ちよをちきりてさ支さかゆら舞

 渡辺千秋(1843~1921)は天保 14 年(1843) に信州高島藩士の子として生まれました。明治期に入ると鹿児島県令などを歴任したのち、明治 25 年 (1892)内務次官となり、27年には貴族院議員に勅選され、さらに宮内大臣に任命されたのは明治 43 年 (1910)のことでした。こうして千秋は政府高官として活躍しましたが、その一方『千秋歌集』を著すなど歌人としても著名で、彼の多彩な才能がしのばれます。
 なお、この碑はもともと明治35年(1902)武蔵園主吉木磯吉によって同園内に建てられたものですが、武蔵園が廃園となり幾多の経緯を経て、平成 24 年 (2012)奥村敵氏から区へ寄贈され、現在に至っています。


菖翁花(しょうおうか)



 江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは旗本、松平左金吾定朝(まつだいらさきんごさだとも)です。自らを「菖翁(しょうおう)」と名乗り、六十年にわたって花菖蒲の改良と新晶種の作出に情熱を傾けました。菖翁により作出された花を「菖翁花」といいます。安政三年には、菖翁花の集大成「花菖蒲花銘」が執筆され、百二十種に及ぶ品種が挙げられましたが、現在は十七種前後が現存するのみとなっています。
 堀切でまず花菖蒲を栽培し、江戸末期から花菖蒲園として名を馳せたのは、後の小高園の祖となる伊左衛門です。文政初期には、伊左衛門が菖翁から「宇宙」、「霓裳羽衣(げいしょうい)」などの品種を譲り受けて栽培し、繁殖を図りました。その後、菖翁花が小高園から堀切園や他の花菖蒲園に広まったと考えられています。
 堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引継ぐ、十種余りの花菖蒲の栽培管理を行っています。

(※1)小高園 武蔵園と並ぶ、堀切における花菖蒲園の祖。明治以降は花菖蒲をアメリカへ輸出する等、数多くの功績を残した。
(※2)堀切園 現在の堀切菖蒲園の前身。終戦後、足立に疎開させていた 花菖蒲を画場に戻すことで、復興を果たした。


句碑



花びらに 雲をささへて
        朝  菖蒲

梥雄(まつお)










堀切菖蒲園通り

商店街♪
今回こちらは通らなかった。










極楽寺


薬師堂


大師堂


女人橋関係石材一括



 近世における講義団による造立物は、江戸時代中期には同行集団によるものから女人集団による造立が多くなりますが、一般的には十九夜塔や道標を兼ねた供養等が多く、石標を造立する例は比較的珍しいものです。
 この橋のたもとには、竹を四方に囲み幣束を垂らしたものが設けられ、出産で亡くなった妊婦の供養のために、たくさんの人に水をかけてもらったようです。千人に水をかけてもらえれば供養できると信じられてきました。
 近年、出産による妊婦の死が減り、このような儀礼も消滅しつつありますが、近年中世の元文2年(1737)11月に「女人講中」の手によって女人橋が架設されていることは、当時の産育儀礼を知る上で貴重な資料です。
この橋は、現在の堀切二丁目21番21号と同一丁目15番6号の間に架設されていたと言われています。


首塚 他


疣鳥り地蔵


山門










◆妙徳稲荷

中へ入ることができなかったので外からお参り。










◆堀切二丁目公園











続く。