2021/07/21 西新井散歩 07 都営島根四丁目第3アパート/島根古跡庚申塔/島根鷲神社/高砂湯/稲荷神社/稲荷神社

竹ノ塚センター通りを北上。
途中細い路地に入って北西へ進む。
「島根古跡庚申塔」からは北東へ進み旧日光街道へ出て北上。



◆都営島根四丁目第3アパート




手前の公園は「島根中堀公園」









◆島根古跡庚申塔



宝永時代(約二九〇年前)建立 青面金剛下部三猿
島根北部に建て、青面金剛に託して厄除けを願い村人の安全を祈った当村の庶民信仰の地。
(三体あったが一体は紛失)










◆島根鷲神社



 当社は日本武尊誉田別命、国常立命の三柱を祭神とし、末社に三峰社、客殿等がある。
 古代に日本武尊が海岸線の近くにあったこの場所に着いたので、浮島明神として祭祀し、文保二年(1318)武蔵国足立郡島根村の鎮守として中興され、大鷲神社と唱えたという。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などを含む大村であった。村内に七祠が点在し、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二柱の神を合祀し、三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。
 この地域はもと風光に優れ、徳川吉宗の鷹場の故事に関わり、地元教育にも尽力した吉田順庵家塾や酉の市祭祀等の伝えが知られている。
 社殿は氏子中の寄進により、昭和三十一年九月再建され、境内の整備も行われた。祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやしは昭和五十七年十二月に、島根神代神楽は同六十三年十一月に、それぞれ足立区登録無形文化財となった。また、境内にある享和二年(1802)在銘の明神型石造鳥居は、千住四丁目の石工・保永助七の手によるもので昭和六十年十一月、足立区登録有形文化財(建造物)となった。



往古入江の景勝地なり。伝えて白すに諸神舟にて上陸したる処とて社の淵源は古く日本武尊東国を鎮護せられ、此の地を祀られる尊を稱へ、大鷲尊、又浮島明神とも号す。時へだて源頼義公(源氏旗上げ)崇敬厚く関東一円に奉斎す。当時武蔵国足立郡淵江郷島根と称し、亦島畑多きが故に七祠祭祀あり。元禄8年の検地により全く一村となり、七祠の内ニ柱大神を合祀し八幡社、誉田別命、明神社国常立命の三神明神の社となす。尚郡内に美田を潤し産業・文教に顕あり。八代吉宗公、御成して当吉田伝統が塾を、天下の手本と褒賞せられた。島根囃子・神代神楽も伝統を伝え、明治以降氏子崇敬者よく神徳発揚を計り神域を整えたり。


三峯神社



富士塚



富士は日本一の山 日本人の心の古里である。
今でこそ登山が日常化してはいるが昭和の初め白装に身を固め「六根清浄」を唱えた乍ら 信仰の山 最高の修行の道場としてあがめられていた富士山 当時の神國日本の尊い山であった。
島根の若者が「十三夜同行」として先達富岡小三郎氏に引率されて 何人もの人が島根富士講から出発している 村ではその帰着に合せて牛車に万燈を仕立て島根ばやしのおはやし入で村中の人が迎えに出た 千住大川町氷川神社まで往きは子供達が大勢乗り込んで帰りは「六根から来る一切の迷いを断ち切って心身清らかに」なった島根の若者が行者姿も凛しく仕立の牛車に乗せて鷲神社迠帰った 富士塚に無事帰着の報告祭を行った 登山で日焼した若者達がまるで修行を積んだ聖人の様に私達子供の目にうつった。
先達の富岡氏が鷲神社に残してくれた神社の富士塚も幾星霜経て破損がひどく この際復元した方が良かろうと云ふ事になり 七月一日浅間祭までに工事を完了するべく地元有志の献身的な奉仕を頂き 此々に完成に至る。



楽殿



将軍石



八代将軍吉宗公 御成
享保六年十月二十八日


先人の見識を稱(たた)えて



 明治の俳聖、正岡子規がこの地をたずね、「うぐいすの梅島村に 傘かわく」(当時梅島村島根と称した)と発句を得たご利益を記しておられますが(「足立史談」)、江戸の古は御鷹場として、歴代将軍家や、その後も諸人の心をも潤おす美田を連ねた景勝地でありました。
 豊かな稔りも努力と治水の歴史によるものでした。家康公が利根荒川等の改修にかかり、各街道整備に継ぐ江戸三大水利事業は、玉川上水神田上水とこの見沼代用水であり、八代将軍吉宗公は広く助郷を求めました。
 南番三十二ヶ村総名主を務めた、わが島根の牛込孫衛門のもと、各流域と共に人力を結晶して利根大堰(とねおおぜき)よりの真清水が取水、通水されたのです。
 明治43年、大堰大出水す。埼玉側はもとより、芝川中川と千住荒川、台東中央他を浸しましたが、この微高地は被災せず、その防災拠点としていちはやく消防組活躍、救護に当たりました。別に掲げる芳名は、国家の大事業、荒川放水路開削に伴う、各自の奉仕による尊い浄財を境内整備へと高めた、神人感応、先祖報恩の誠であります。
 鷲神社奉賛会はじめ、当代の心ある人達が千古の昔よりの真剣な歴史の重みを受け継ぎ、この奥の院改築竣工芳名、再録を通し、江戸以前の本殿、拝殿、二殿を渡殿で結ぶ松並木の旧景観に思いを致し、以降、今日に亘る絶え間のない地域発展の亀鑑として顕彰しようとするもので、導きの見識の高さに感謝の一念を表わすものです。
 茲にその由来をしるし、更なる弥栄を祈り、筆をまとめます。


靖国平和塔


島根歌舞伎記念碑/田口峯吉翁栄寿之碑/足立区無形文化財指定記念碑


島根歌舞伎記念碑(裏側)

島根歌舞伎の沿革
 想うに私達の先祖は遠き江戸の世の頃、生活の中での娯楽は乏しいものであったろうと思います。少ない生活の想いの中から最高の演劇であった本場歌舞伎は高嶺の花てもありました。
 自然 村中の人達が自分達で役者になって楽しみを求め合い、やれが近郷近在に広がり、生活に、仕事に活気を与えて来たことと思われます。明治・大正・昭和と時代と共に素人歌舞伎か盛大に受けつがれ私達の世代になりました。
 戦後二十一年と二十五年とて芝居は中断されております。時代の流れで今は立消えの状態てあります。
 私共は先祖から受経がれた村の無形文化財てある「根歌鋒伎」を後世に伝永したいと存じまして記念碑を建立することになりました。


田口峯吉翁栄寿之碑(碑文)
判読できない文字がありすぎても時価を断念。
名前で検索しても出てこないね・・・。


足立区無形文化財指定記念碑(裏側)

島根はやしの由来
 島根はやしがいつ、どのように発生したか、その歴史は明らかではありませんが、古老の語り伝えるところによれば、神田はやしの流れをくみ、二百年以上も前から島根町に伝承されてきたものということであります。
 鷲神社の祭礼、あるいはお酉さまの日に、常に町民を守ってくださる神のみ心を慰め、感謝の誠を授けるという素朴な庶民信仰がおはやしという芸能に身贔し、祖父から子へ、子から孫へ、長男から長男へと代々受け継がれてまいりました。
 もとより、長い歴史の中では時には盛んに、時には細々とした降替はあったと思われますが、田口峰吉翁は島根はやしの中興の人と申すべき人でありましょうか。翁は嘉永五年島根町に生まれ、幼少のころから敬神の念厚く、慶応二年囃子神楽を修得し、明治・大正・昭和の三代に渡り足立区一円隈なくご指導を授けてこられました。また、大正の初期にはみのかやはやしから神田ばやしへと改革するなど縦横な腕を揮って現在の島根はやしの基礎を作りました。
 かくして華麗にして荘重なる島根はやしの最盛期を迎えたのでありますが、不幸にして戦中戦後の世情人心の変化は伝統文化の衰退、変革をもたらし、翁の指導もままならず囃子連中も次第に減少していきました。そこで、一般よりはやし志望者を募り、厳しい訓練を経て昭和五十年の大祭を飾ることができました。
 なお、子の大祭に際して、かごまりを復活できましたことは、島根はやしにとって非常に画期的なことでありました。
 現在は、囃子連中三十名、十年計画の特訓も花開き実を結んで昭和五十九年には足立区無形文化財に指定されました。kろえも一重に先祖先輩のお力と町の皆様のご支援ご協力の賜物と心より感謝いたしております。
 ここに過去に思いをいたし、現在を見つめ島根はやしの歴史と伝統を守るべく記念碑を建立することになりました。
 これを機にわれら囃子連一同益々努力精進する覚悟でああります。


鳥居



石質は花崗岩で、関東大地震に貫を損傷したが各々完存している。左右柱に刻銘があり、享和二年(1802)に千住四丁目の石工保永永助七が建設したことが知られる。
この鳥居は、区内では建立事情の明らかな古い遺構として貴重である。



鳥居境内の左寄り三峯神社本殿前に建つが、もとは本社殿前に建ち、昭和三十五年大鳥居造営の時、現在地に移築された。鳥居は柱心92m5cm、総高3m余の小規模な明神鳥居で、整った形式になる。


鳥居









高砂

銭湯♪










◆稲荷神社










◆稲荷神社












続く。