1902年年(明治三十五年十一月)大宮工場見習養成所の一部を借りうけて授業を開始したといわれる客にう工場学校は、その後1923年(大正十二年九月)大宮尋常高等小学校桜木町西分校となり、1927年(昭和二年四月)大宮西尋常小学校と改め独立校となりました。また、昭和十五年校名を桜木尋常小学校と改め、さらに昭和十六年大宮市桜木国民学校となり、いくたびがの光明変更がありましたが1982年(昭和五十七年一月) 西口都市改造事業に伴い現在地、大宮市桜木町四丁目三二八番地一九)に移転しました。
この間、八十余年の歴史と伝統に輝く母夜桜木小学校らは有為な人材を数多く社会に輩出し卒業生もすでに一万人を越すにいたりました。夢、旧桜木小学校の跡地に聳えるソニックシティは明日の大宮をさり拓くシンボル的な存在として産業・文化・国際交流とその役割が大いに期待されております。
こうして、地元の発展のために移転した跡地に往時の桜木小学校の面影を後世に伝えようと、桜木に生まれ、桜木に育ち、桜木で学んだ桜木っ子が、あの日、あの時の思い出を懐古しながら母校のぬくもりが肌に伝わるような「おおい!ここだよ」の記念像をここに建立し母校のますますの発展を祈念するものです。
鐘塚公園由来
この公園に立つと、何処からか鐘の音が聞こえて来ませんか、その昔鏡の精が美しい姫となつて現れたロマンに満ちた物語の地です。
やかて姫が月に帰るとき歌を残しました。
「いざさらば 月の世に住む身なれども 忘れがたなき鐘が宿かな」
世代を越えて、大宮市民の心の糧となることを願って公園名としました。
大宮維新の人
旧大宮市百年の繁栄を築いた先達者の白井助七翁の偉大な業績とその存在れてはならない。
翁は天保十二年十月大宮宿大門に生まれ家業の甘藷肥料問屋を営んでいた。
明治十六年日本鉄道会社によって上野から熊間に鉄道が開通したが大宮に駅に出来なかった。
丁度その頃商工業の発展には駅は必要だと、白井氏は大野伝左衛門矢部忠右衛門岩井右衛門八等と共に駅の必要性を説きのために必要な土地、資の提供を申出て熱心な請願運動を展開した。その努力が実り明治十八年大宮駅が開設され鉄道の街大宮への第一歩がふみ出された。
その後これにとどまることなく明治二十五年更に日本鉄道会社の鉄道材料工場建設誘致の運動を展開、これが実子大宮に工場が建設され当時大宮は活気にあふれた。
駅 鉄道工場街づくり道路づくりに伴い仲間と共に土地資材を提供し、鉄道の街大宮の発展に大きく貢献した。
又鉄道会社より贈呈された謝金を小学校の校合建築資金に寄贈し、文教の充実にも寄与した。こうした数々の功労により明治八年推されて第三代大宮町長に就任惜しみなく 町政に力をつくした。激務であった町政の執務遂行中逝去された。時に明治二十九年五月、享年五十八歳であった。
平成十四年 六月吉日
白井助老翁顯彰胸像建立实行委員会
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