2021/11/28 大宮散歩 04 大宮区役所/山丸児童公園/市民会館公園/さいたま市民会館/庚申神社/浅間神社

まだまだ氷川神社参道と旧中山道沿いに北上。





大宮区役所











◆山丸児童公園



 大宮市は明治18年に、東北本線開通と共に、時の先覚者白井助吉翁の尽力により停車場が開設され、爾来鉄道の町として鉄道の発達とともに発展し今日の繁栄をみるに至りました。
 白井佑吉は天保12年大宮に生まれ、よ時制を注視し、停車場の開設、甘藷組合の創立、国鉄大宮工場の前身である日本鉄道会社材料工場の誘致等常に公益のために尽くし明治28年大宮町長に推されました。本誌の今日の発展、基礎は、翁の卓見によって築かれたと申せましょう。
 このたび、国鉄において電車化の計画により、蒸気機関車の廃止が決定されましたので、本市発展の歴史を象徴するものとして、機関車をここに陳列し、広く市民の愛情に応えると共に、白井助七翁の功績を長く顕彰するものであります。




C1229号のあらまし
 この蒸気機関車は、昭和8年2月日立製作所笠戸工場で製造した過熱蒸気式タンク機関車である。横浜機関区に配置され、横浜港の入換えに使用されていた。その後旭川、釧路で活躍したが昭和34年2月4日から川越線及び太宮工場交換機として使われ、昭和44年廃車となり、昭和
45年2月26日大宮工場から借り受けたものである。
重量 39.5t   高さ 3.9m   長さ 11.39m










◆市民会館公園


旅だち











さいたま市民会館


記念碑?

「1970、1、11 大宮市連合婦人会」
とあった。











◆庚申神社



 此の庚申様は、今から約二百四十余年前の宝歴十年正月、当時の大宮下町講中によって建立されたものです。
 正面の尊像は 六賢の青面金剛で、六本の手には、剣、弓、矢、斧、法輪、半棵の女人を持っています。その他に、日月雌雄の鶏、天邪鬼、三匹の猿が 浮彫りされ、両脇に建立年月日、側面に 南 方 北袋道、西方大宮宿、東方 天沼道、北方社中道と記されて道しるeべとなっています。
 庚申信仰は中国の道教 (三尸説)に起因。日本に伝来すると神道と佛教と融合して、神道では熊田を、城祖神、作北(作物 の 神)、塞神、道の神。佛教では背面全剛、帝駅天として祀られました。
 室町末期から江戸時代になると庶民の間に普及し、講組織による造塔供養が盛んになりました。
 此の庚申機は家內安全。交通安全とし地城の人々に厚く信仰され、多数 の方々の参詣が絶えません。毎年四月の申の日に祭事が行われています。












浅間神社



浅間山由来(千間山思考)
 日光門跡輪王寺宮四代公寛親王が上野寛永寺と日光間を三往復されていた折に街道筋の幕府から請地している者たちが、沼地の干拓を熱望していることを聞き徳川八代将軍吉宗に用水路の普請と沼地の干拓を進言したことから見沼代用水工事が幕府直轄で始まることとなった。
 徳川吉宗の命により享保十年八月から普請役安田太左衛門はこの工事を行うための測量、設計に必要な三角点の一つが現在の浅間山の地点にもとめられた。
 付近の荒れ地から土を運び、山を築き、櫓を組み水平板を設置して用水路の通過地点の高低を測る工事を施工した。この三角点との距離が大体千間あったので、当時の住民はこの山を千間山と呼んでいた。 江戸中期には山岳信仰が盛んとなり、当地でも富士山の浅間神社をこの山に祭ることになり、浅間山と呼ぶようになったものと思われる。

浅間神社
 浅間山の洞には山岡鉄舟が揮した「浅間洞」の碑があります。鉄舟は政治家で勝海舟高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と称された傑物です。鉄舟が片柳染谷村の常泉寺に逗留していた頃浅間様の有力な氏子の依頼にて鉄舟が揮亭したもので、富士山の方角に向けられてあり浅間洞の碑は明治士八年にたてられたものであります。

浅間神社 例祭
 富士山山開きの毎年七月一日に初山の行事が行われます。この日の前一年に生まれた子供たちが親に抱かれてお詣りし、お破いを受け、子供の額に「初山」の朱印を押してもらい団扇をうけ親戚や知人に配って子供の健康を祈るものです。

浅間稲荷
 東松山箭弓稲荷のお礼をお記りしてあります。五穀豊穣 商売繁盛 交通安全等の祈願社として信仰されています。
御祭日 初午祭(三月初午)













続く。