2021/09/01 堀切散歩 03 正王寺/寿湯/奉供養庚申二世成就之所/葛飾氷川神社/堀切第六天社/正王寺/小谷野しょうぶ児童遊園

ここでもどんどん南へ向かう。
第六天矢代からは西へ方向転換。
このあたりが、形成堀切菖蒲園駅の一番近くになるかな?
駅へは寄らずにそのまま西へ進む。



◆正王寺


明暦二年銘庚申塔



 60 日に一度めぐってくる庚申の日に、長寿を願ってみんなで集まり夜明かしをすることを、守康中、庚中待といいます。このような庚申信仰が各地に広がり、庚申講が作られました。その供養、記念のために廃申塔が作られました。
 この康申塔は明暦2年(1656)の銘をもち、板碑型の康申塔として、江戸時代初期の典型的な形態をとどめたものです。
 板碑型の康申塔は 18世紀初頭の享保年間(1716~1735) 頃まで造られました。13 世紀の初めから 17 世紀にかけて、荒川流域を中心に多数造立された板碑の名残をとどめています。


湯殿山供養碑



 净慶庵は下千葉村の郷士相川重右衛門の創立といわれ、この供養碑は子孫である相川文右門夫妻が生存中の善根(ぜんこん)(功德)として、寛文4年(1664) の彼岸の日に、逆修供養(生前自分の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)したものです。
 出羽三山のうち 湯殿山のみを供養の対象とし、種字 (仏の姿を梵字を組み合わせて表したもの)で主尊(中央) 脇侍(左右) の三尊の形を表し、配列なども希なものです。
 出羽三山は、山形県の中央に連なる月山、 羽黒山湯殿山のことで、また修験道道場として、6世紀ごろに開山したとされています。特に信仰の中心は湯殿山ですが、出羽三山に参詣して五穀豊饒、海上安全、家内安全、無病息炎を祈願しました。


石塔


山門









◆寿湯

銭湯♪









◆奉供養庚申二世成就之所











葛飾氷川神社

下記ページだと「堀切氷川神社」となっていた。
堀切氷川神社|葛飾区堀切の神社、旧下千葉村鎮守



氷川神社由緒
詳かならざれど口碑に拠るに正治元年(1199年)三月頃武蔵国一の宮氷川神社 (埼玉県大宮市氷川神社)を勧請して下千葉村(現在地)の鎮守とし本斎
明治五年十1月十四日社格を村社に列せらる

八王子神社由緒
創立不詳なれど別当寺正王寺の縁起によれば治承二年(1178年)山王二十一社の一つである八王子神社を深く崇敬した源頼朝によって関西方面より移されたもので当時田園百貫文寄進されたと言う
その後慶安ニ年(1649年)八月二十四日德川家綱公の代にその由緒により五石の御朱印下付さる 大正年間米川神社へ勧請 昭和六年現地新築


八王子神社


氷川神社のクロガネモチ



 元々このクロガネモチは高さ 11.7m、盛土上の根回り 2.45m、地上 2.4mで2幹に分かれていた。枝張り全体は切りつめられて円筒状になっていたが、雄株で樹勢も良好であった。
 神社創建以来、天正年間(1573年~91年)よりの御神木と伝えられており、現在も注連縄が張られ奉られている。
 区内にある同種樹木のうちでも巨木で貴重な存在であった。
 平成7年8月11日午後4時、老樹のため惜しまれつつも現状となり、今日でも元御神木として大切に管理。保存され信仰を集めている。


楽殿


江戸・東京の農業 下千葉小カブと糸ミツバ

 下千葉は、かつて南綾瀬村大字下千葉(現在の葛飾区堀切周辺)と呼ばれ、小面積で短期間に多収穫をあげる、いわゆる野菜の集約農法の先進地として発展した所です。なかでも「小カブ」と「糸ミツバ」は肥沃な土地と大都市近郊という好条件に恵まれて、昭和年代前半まで当地の特産品として栽培され、江戸・東京の台所を潤してきました。
 「下千葉小カブ」の栽培起源は口碑による説では、江戸時代中期の頃からといわれています。本格的な栽培は明治末期に入ってからで、以後「下千葉小カブ」の原産地としての生産が続けられる一方で、種子とりも盛んに行われました。この種子はやがて他町村に広まって行き、各地の産地形成に役立てられました。
 また、糸ミツバは大正時代初期にはかなり作られていましたが、栽培起源は明らかではありません。一説には天保年間(1830〜44)の頃、南綾瀬村の相川喜衛門が旧砂村(江東区砂町)から導入したのが始まりらしいともいわれています。その繊細な品質は、東京の市場や料理屋から高く評価されていました。

鳥居









◆堀切第六天社










◆正王寺


大師堂


石塔

右側が庚申塔なのはわかる。


山門


近くにいた猫









◆小谷野しょうぶ児童遊園










続く。