2022/01/29 中野本町散歩 11 福相寺/地蔵尊/本佛寺/妙祝寺/セシオン杉並跡/健康ウォーク記念碑

妙法寺から北上。
自宅へ到着。





◆福相寺



 当寺は、正住山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮上人坐像です。
 「江戸紀聞」「改撰江戸志」などによると、当寺は、天正十七年(1589)一如院日重(身延山久遠寺20世)により下谷に開創され、寛永年間(1624~1643)寺地が上野寛永寺の境内地となったため、小石川白山前に移転したとされています。
 また、一説によると、寛永五年(1628)正住院日協により谷中三崎に開創され、元禄十六年(1703)火災に遭い焼失したため、その後、小石川白山前に移転したと伝えられています。
 当寺には、病気平癒に御利益があり、また、福を授けてくれるという「願満大黑天」が安置されています。その由来は、当寺十六世日元が大坂(現大阪)に立ち寄った際、長病の某氏のために同家に安置されていた伝教大師の作といわれる大黒天を清め お祈りしたところ、 全快し、これが縁でこの像は日元に託され、当寺鎮護の善神とLて境内鎮守大黑堂に安置されたということです。江户後期には、その「来縁の記」を刷物にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集めました。遠く関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納Lた石塔が今も境内に残っています。
 墓地には、俳人,長谷川零余子 (昭和三年没) ・かな女(昭和四十四年没)夫妻の句碑と墓や、初代杉並区長,魚井重太郎の墓があります。


確認された著名人のお墓
初代杉並区長 魚井重太郎の墓

長谷川零余子・かな女夫妻の墓
『長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年明治19年)8月20日 - 1928年(昭和3年)7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人
群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身[1]。本名は長谷川諧三(旧姓富田)。東京大学薬学科専科を卒業。
16歳(1901年)より俳句をはじめ、1905年新聞「日本」「万朝報」に投句し、「日本」の選者河東碧梧桐の知遇を得る。1906年ホトトギス例会に出席するようになる。1912年、高浜虚子に請われてホトトギス編集部に入る。1913年「ホトトギス」の「地方俳句界」の選者となる。1914年「東京日日新聞」(現「毎日新聞」)の選者。1921年「枯野」創刊し主宰する。1926年講演概要筆記「立体俳句論」を「枯野」に掲載。幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た。1928年、山陰地方への旅行から帰った後に発熱し、7月27日に東京府東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)の自宅において42歳で死去[1]。
妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。 』
長谷川零余子 - Wikipedia

『長谷川 かな女(はせがわ かなじょ、1887年10月22日 - 1969年9月22日)は、日本の俳人。本名はカナ。孫は小説家の三田完がいる。 』
長谷川かな女 - Wikipedia


福相寺木造大黒天像及び大黒天信仰関係等版木並びに石造物
本大黒天像は、江戸時代には「願満大黒天」と呼ばれ、その由来記を版行して参詣者に配るほど信仰を集めた。その由来記の他、駒込(現文京区白山)慈愛の福相寺の境内を描いた多色刷りの団扇絵、護符などの版木も残っている。また、鼠の彫像は、石造物としては国内でも古例に属するものとして重要な例品である。大黒天像、版木、石造物は大黒天信仰の隆盛を示すものとして貴重であり、これらが一括して伝えられていることで、互いの意義を強調しており、これらの価値は極めて大きい。


山門













地蔵尊














◆本佛寺

一度来ている。
2019/03/17 方南町散歩 10 真盛寺/梅里公園/七福神/本佛寺/修行寺/妙祝寺 - ovanの社会科見学



 当寺は、案楽山と号する日蓮宗の寺院です。本尊は十界勧請の大曼荼羅釈尊像および仏使の四菩薩像です。また、江戸時代作の日蓮上人像が安置されています。
寛永八年(1631)に江戸の谷中三崎(現台東区谷中)に創建され、修行院日通上人により開山されました。
 元禄二年(1689)に寺院消失後、翌3年に本所出村(現墨田区太平)に寺地を拝領して移転し、同十一年には身延山久遠寺の末寺となりました。享保二十年(1735)に第8世日現上人は津軽家の帰依をも受けて鬼子母神堂を創建し、第13世日盛上人(後の身延山第52世)は天明の大火(1784)で類焼した諸堂を復興し、寛政三年(1791)には鬼子母神堂を再建しました。
当寺に安置されている鬼子母神像は、子授け・開運鬼子母神といわれ、関東三鬼子母神の一つとして参詣や縁日で賑わい、江戸庶民の信仰を集めました。
 縁起によると、この鬼子母神像は、延宝五年(1677)四月八日、本所小網町の三股川から出現した霊像で、由来は、下谷池之端に住む横田七郎右衛門という熱心な法華信者が男女5人の子をもうけましたが次々と失ったため、子授け・子育てを雑司ヶ谷鬼子母神に祈願したところ、満願の日に舅が鬼子母神像を持ってくる夢を見ました。また、舅の木村伊左衛門は若夫婦のために三股川で水垢離(みずごり)を取っていたとき、髪の毛にこの像がかかったので、所願成就のしるしと喜び娘夫婦の所へ持参しました。それからまもなくして横田氏の妻は丈夫な男子を生んだということです。横田氏は、この霊像を在家に安置することは恐れがあるとして当寺に奉納し、それからこの像は、水中出現の子授け・開運鬼子母神と崇められるようになったということです。
 大正十二年に関東大震災で堂宇を罹災し、現在地には昭和十七年に移転してきました。














◆妙祝寺



 当寺は、如説山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊像です。
 「文政寺社書上」によると、寛永三年(1626)、下総国葛飾郡平賀村(現千葉県松戸市)の本山本土寺の末寺として、修行院日城上人により麹町に開創されました。その後、江戸市街の整理のため寛永十一年(1634)に赤坂一ツ木へ移転し、さらに明暦の大火(1657)の後、幕府の防火対策のため万冶元年(1658)に1500坪の拝領地をもって市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転しました。
 貞享元年(1684)、本土寺21世貫首日信上人は、本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)を修行寺に定め、明治初期まで院代(住職代理)を置いて日常の法務をさせていました。また本土寺貫首の多くは貫首を引退すると修行寺山内智光庵に隠棲し、本土寺貫首の墓塔は修行寺にも残されました(如説山修行寺略史)。
 元禄八年(1695)、広瀬藩出雲国松江藩支藩)の藩主松平近栄の室、満姫が本土寺に奉納した七面大明神の木坐像が修行寺本堂に安置され、享保十六年(1731)には、松平家からの寄付もあって七面堂が完成しました。江戸の町名主がまとめた「東都歳時記」には「七面参」の寺院の一つとして記されています。また文化九年(1812)、法華信者であった尾張藩附家老の成瀬正典が生前墓を建立し、一族の墓も十数基建てられました。
現在地には、都市計画を進める東京市が明治三十六年(1903)に市内寺院へ示した方針もあって、大正元年(1912)に移転しました。昭和二十年(1945)五月二十五日に空襲を受け、堂宇など建物すべてが焼失しましたが、のちに再建されました。
 墓地には、能楽シテ方金春流の別家金春八左衛門十世安冶の墓などがあります。













◆セシオン杉並跡













もう少し北へ進み帰宅。
日記を書くためにoogle mapを開いていたら、まだ巡っていない場所を発見。
また行かねば(w





11月14日に友人と参加した健康ウォークの記念品が届いていた。


◆健康ウォーク記念碑


健康ウォークの時の日記はコチラ↓
2021/11/14 東京健康ウォーク2021 02 大栗川/柳沢の池公園/東京都立大学/南大沢駅/新宿駅 - ovanの社会科見学