
『往時は、真言宗とも天台宗ともいわれ、吾妻鏡に見える威光寺に比定されていた。しかし、妙楽寺の日光菩薩像の胎内から墨書銘が発見されたことにより、威光寺ではないことが判明した。鎌倉時代、日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、威光山法明寺と改称した。室町時代、鬼子母神が安置されて茶屋などが軒を連ね門前町を形成した。
旧本山は身延山久遠寺。通師雑司が谷法縁の縁頭寺。 』
法明寺 (豊島区) - Wikipedia

花塚は東京市牛込区北山伏町三番地に所在せし日本生花学会会長・勅使河原和風翁が関東大震災後の東京復興運動の精神昂揚に寄興すべく一門 の花供養を結集し大正十五年四月八日花まつりの佳節を選び雑司が谷法明寺前の霊地に建立せしものなり
◆幽顕之當


◆ふくろう

ふくろうや
みみずくの形をした豊島区は
笑顔あふれる勇気あふれる
◆庚申塔

場所はコチラ
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2018/08/28 記事アーカイブ

法明寺の墓所
<小幡景憲(おばたかげのり)の墓>
開国武田氏の家臣の子として生れれる。武田氏滅亡後は徳川家に仕え、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦い、同十九年の大阪冬の陣で徳川家の勝利に貢献したといわれる。甲州流軍学の創始者としても知られ、軍学書『甲陽軍鑑』の成立に係わった。
<豊島氏の墓>
豊島氏は、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて、武蔵国のほとんどを勢力下にもっていた在地領主であるが、文明十(1478)年太田道灌に攻め落とされた。その後裔を称し、江戸幕府の旗本になった一族の墓である。八丈島代官をつとめた豊島忠次(寛永二十(1643)年没)をはじめ、豊島氏系図を作成した泰盈(やすみつ)(享保十二(1727)年没)の系統を中心とする。
<四代目橘屋円喬(たちばなやえんきょう)の墓>
慶応元(1865)年十一月九日生まれ、七歳で三遊亭圓朝に入門、明治十一(1878)年二つ目に昇進し、二代目三遊亭園好を名乗る。上方での修行ののち、同十八年に東京に戻り、四代目橘屋円喬を襲名し真打に昇進。同三十八年に旗揚げした「落語研究会」の発起人をつとめた。話術に優れ、名人と称される。真夏の寄席で「鰍沢(かじかさわ)」をかけたところ、真冬の寒さを描写するうちに寄席の団扇や扇子を扇ぐ手が止んだという逸話が残る。大正元(1912)年十一月二十二日没。
<老女華嶋(はなしま)の墓・楠木正成息女の墓>
墓地入口は近くの墓台と門扉がある墓は、十二代将軍徳川家慶に仕えた江戸城多くの老女華嶋のものである。華嶋の墓のそばには、楠木正成の娘の墓と伝えられる姫塚がある。法明寺縁起によると、楠木正成の息女とその夫の立願で高祖の像を彩色したと伝えられている。現在の墓石は、天保九(1838)年二月二建立されたものである。















