2022/12/05 目白不動金乗院


以前来たことがある。
2021/05/26 雑司が谷散歩 05 金乗院/宿坂/鬼子母神表参道入口/のぞき坂/早稲田30号踏み切り/千登世橋/雑司が谷駅 - ovanの社会科見学

何故か今回本堂を撮っていなかったので、2021/05/06の写真で。
他は今回のを使用。




 金乗院真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(1594)六月であることから、それより以前、天正年間(1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二十年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二十年五月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。
 墓地には槍術の達人丸はし忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政十二年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。





◆宿坂道

 中世の頃、「宿坂(しゅくさか)の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)出版の『 江戸名所図会 』には、 金乗院 (こんじょういん)とともに「宿坂関旧址(しゅくさかのせききゅうし)」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場(たつちょうば)と呼ばれ、昔 関所 があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳(なおのり)著『若葉の梢』(寛政十年・1798)によれば、 宿坂の関 は関東お留(とめ)の関で、 鎌倉街道 の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、 高田馬場 から 雑司ヶ谷 鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂 と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。





弘法大師





◆唾塚





◆石塔

一番右は「圭永子地蔵尊
一番左は「倶利加羅不動」 
まんなかのがわかりません。
ご存じの方教えてください。





水子地蔵尊





◆墓地入り口





青柳文蔵の墓



「日本における図書館の始祖」とある。

『青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年(1761年) - 天保10年3月14日(1839年4月27日))は、仙台藩領磐井郡東山町(現在の岩手県一関市東山町松川)出身の江戸時代後期の商人。医師・小野寺三達の三男として生まれる。名は茂明、号は東里、近水楼主人。青柳文庫の名前の由来となった人物である。 』
青柳文蔵 - Wikipedia





◆丸橋忠弥の墓

『丸橋 忠弥(まるばし ちゅうや、生年不詳 - 慶安4年8月10日(1651年9月24日))は、江戸時代前期の浪人。慶安の変江戸幕府の転覆を図った首謀者の一人。本名は丸橋 忠也、号は一玄居士。
出自に関しては、長宗我部盛親庶子・盛澄として生まれ母方の苗字である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説[3]、出羽国山形の出身とする説、元幕臣だったとする説[5]などがあり定かではない。河竹黙阿弥の実録歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では長宗我部盛澄説をとっている。
友人の世話で、江戸・御茶ノ水宝蔵院流槍術の道場を開いた。その後由井正雪と出会い、その片腕として幕府転覆計画に加担、江戸城攻撃を受け持った。しかし一味に加わっていた奥村八左衛門の密告により事前に計画が露見。捕縛され母や兄らとともに鈴ヶ森刑場で磔にされた。
辞世の歌は「雲水のゆくへも西のそらなれや 願ふかひある道しるべせよ」。墓所は東京都豊島区高田の金乗院と品川区の妙蓮寺にある。
一説に新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋だという。 』
丸橋忠弥 - Wikipedia





◆石塔




墓地前の石塔のほとんどは庚申塔かな?





目白不動尊





不動尊前のお地蔵さん群





◆山門






場所はコチラ↓








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2021/05/26 記事アーカイブ

金乗院



 金乗院真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(1594)六月であることから、それより以前、天正年間(1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
 江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二十年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。
 目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二十年五月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
 目白不動明王は、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。
 墓地には槍術の達人丸はし忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政十二年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。


宿坂道

 中世の頃、「宿坂(しゅくさか)の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)出版の『 江戸名所図会 』には、 金乗院 (こんじょういん)とともに「宿坂関旧址(しゅくさかのせききゅうし)」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場(たつちょうば)と呼ばれ、昔 関所 があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
 また金子直徳(なおのり)著『若葉の梢』(寛政十年・1798)によれば、 宿坂の関 は関東お留(とめ)の関で、 鎌倉街道 の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、 高田馬場 から 雑司ヶ谷 鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
 江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂 と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。


鍔(つば)塚

刀の「鍔」の塚であろう。
初めて見たかも?


庚申塔


目白不動尊


石塔群

立派な庚申塔が多い。


山門