2022/12/05 大隈庭園


二日後の12/7に訪れたのときの写真と合わせた。
日付が書いてあるもの以外は12/05に撮影したもの。


『この場所には江戸時代後期の天保年間以降、彦根藩井伊家や高松藩松平家下屋敷があった。この時期に築かれた大名庭園が大隈庭園のもととなっている。池泉回遊式庭園は近江八景をもとにしているという。
明治維新後、この庭園の所有者は転々としたが、1874年(明治7年)に大隈重信が入手して別邸とした。1882年(明治15年)、大隈は隣接地を東京専門学校(現在の早稲田大学)開設のための用地として購入。1884年明治17年)に大隈はこの邸宅を本邸とし、この際に庭園を和洋折衷式に改修している(作庭者は佐々木可村)。園芸にも熱心であった大隈は、庭園に温室や菜園を設けて洋ランやメロンなどを育てた。
1922年(大正11年)に大隈が没すると、庭園は早稲田大学に寄付され、大隈会館の庭園として一般公開された[2]。1945年5月の空襲で深刻な被害を受けたが、戦後ほぼ復旧された。 』
大隈庭園 - Wikipedia




 この庭園は、 井伊掃部頭・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を本学創設者 大隈重信文人風に改造したものです。 没後、 邸宅とともに大学に寄贈されました。
 1945年 (昭和20年)5月の空襲で庭園は廃虚と化しましたが、多くの人々の努力により、 ほぼ昔の景観どおりに復元され、今日に至っております。





中華民国獅子像





童子



朝鮮後期(19世紀初~中期)作
男の子を象った墓前に建てる石造。墓の守り主であり、死者の世話をするという。





◆平和記念碑



平和祈念碑
平和祈念碑は、第二次世界大戦で犠牲となった本学教職員・校友・学生約4300名の方々の御霊を慰め、平和を祈念するため、 1990年の創立記念日に建立されました。
 祈念碑の裏面に刻まれた歌は、多くの学生が戦場に赴き、人影の疎らになった寂しい学園風景を、当時の女子学生・宇津宮満枝氏が詠んだものです。
 毎年、ホームカミングデー当日の朝には、 総長をはじめとする大学関係者により、 英霊への鎮魂と平和を祈念し、 献花が行われます。

平和祈念碑碑文
征く人のゆき果てし校庭に音絶えて
    木の葉舞うなり黄にかがやきて
 この歌は、太平洋戦争当時の一女子学生が詠んだものである。
 学生のいないところに教育は成り立たない。 平和こそ教育の原点であることを、この歌は痛いほど明確に教えてくれている。 戦争のため志半ばにしてたおれた早稲田大学関係者への鎮魂の思いをもこめて、今ここにこの碑を建てる。
~この碑文は平和祈念碑の裏面に書かれているものです~





文人



童子石・文人石とは祖先の墓の前に立てられ、墓を見守る石像のことをいう。 ところがこのような文化財は盗難にあい、 外国の博物館や民家の庭を飾るだけのものとなってしまった。自国の文化財が海外へ流出したことを歯痒く思っていた千信一高麗大学校校友会長 (世中古石像博物館の設立者) は国内はもとより、海外所在の文化財を回収するため尽力してき
た。 その結果、 2001年7月、日本所在の70点余りの文化財が韓国に戻った。 この度、 早稲田大学は創立125周年を記念して、千信一氏から ① 「童子石」 ② 「文人石」 ・ ③ 「Poksu」.④ 「濟州童子像」 の寄贈を受けた。
( ③④ は2号館脇に設置)
.
文人
朝鮮初期 (15世紀) 作
陵墓を護る守護像。 袍を着て、 頭には冠をかぶり、手には筋をもつ。 このような文人石はソウル周辺の朝鮮王陵を含む
全国の士大夫墓で確認されている。





◆稲友乃碑/諸工の碑



早稲田大学は工業に関する実務的学術技能を授ける目的を以て明治四十四年算額付属早稲田工業学校を創立し、同年十月教職員生徒の親睦機関として伊奈友会を発会す。以後卒業生を包摂する組織とした。昭和二十三年十一月学制改革に関連し工手学校は廃校されその流れを汲みし工業学校’(昭和二十三年~三十九年)産業技術校(昭和三十九年~五十二年)●
卒業生を受け入れ会員にするも●●●の廃校に伴い  ※※ここから判別不能※※



 早稲田大学付属早稲田高等工学校は我国に於ける工業の発展に寄与し高度の専門性を有する能者を育成する目的で
一、穏健堅実なるところの思想の涵養
一、徒に学理に走らずして実際的な技術を授くるこの教旨で昭和三年四月開され昭和二十六年十月学制改革により閉校となるこの間の卒業生日九二一九名である
 早稲田福工会は教職員学生卒業生の親睦機関そして問来年の五月会の発展と会員相互の親を推進する」ことを目的として創立され以来年の年輪を重ね今日に至る
 私達は早稲田で学んだ誇りと福工会の名を水に伝えるためここに創立七十周年にあ大阪庭園内に光輝めるその歴史を記念しこの碑を建立する。





◆エミレの鐘と韓鐘閣



この鐘は、新羅の聖徳大王神鐘 (エミレの鐘)を縮小した複製で、本学の創立100周年を祝して1983年に韓国校友会から寄贈いただいた。
本学が創立125周年を迎えるにあたり、同校友会からヾ韓国伝統様式の鐘楼も建立し、寄贈いただいた。





孔子

孔子(公元前551年ーー前479年)
名丘,字仲尼,春秋末期魯國人。中國古代偉大的思想家、教育家、儒學派創始人。





◆亀池






◆大隈綾子銅像

『大隈 綾子(おおくま あやこ、1850年11月28日(嘉永3年10月25日) - 1923年(大正12年)4月28日)は、大隈重信の2番目の妻である。50年以上にわたって夫を助け、賢妻の誉れ高かった。江藤新作や小栗忠順の遺児である国子を育てたことでも知られる。旧姓は三枝。兄に小倉鉄道取締役を務めた三枝守富。従兄に小栗忠順がいる。 』
大隈綾子 - Wikipedia





◆田中穂積銅像

『田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日[1])は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長』
田中穂積 (法学博士) - Wikipedia





◆完之荘(かんしそう)

700年前の飛騨の古民家を移築したとのこと。
内部も見てみたいなあ。
あまり建物の情報がないので、詳しい事をご存じの方は教えてください。

参考
【完之荘(かんしそう)】〜早稲田大学、大隈庭園の古民家 - 新宿区



完之荘前にあった石


同じく手水





大隈重信の人生の記念碑



早稲田大学校友会は、最初の得業生 (卒業生)が出た翌年の1885年(明治18年)に発足し2010年に 125周年を迎えました。
「ともに世界へともに未来へ」を合言葉に先達への想いと全校友の輝かしい未来を願い大隈重信の人生 25歳説に因み、 125cm立方の記念碑を建立しました。





◆大熊お手植えの楠

おそらく紅葉の奥にあるのがそうだと思われる。






◆大隈邸玄関跡





◆「早稲田の栄光」歌碑

栄光はみどりの風
花ひらく若き日の歌
重ね来し 歴史尊く
承け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田

ふり仰ぐ時計の塔に
青春の眸は澄みて
雲と湧く 文化の理想
担い立つ 我等たくまし
早稲田 早稲田 我らの早稲田

昂然と高張る胸に
伝統の息吹通いて
翻えす 校旗の紅に
感激の血潮は沸る
早稲田 早稲田 我らの早稲田

先哲の面影偲ぶ
なつかしき真理の杜を
彩るは 七色の虹
とこしえに輝く 早稲田
早稲田 早稲田 我らの早稲田






◆紺碧の空 歌碑

紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき 伝統のもと
すぐりし精鋭 闘志は燃えて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田

青春の時 望む栄光
威力敵無き 精華の誇
見よこの陣頭 歓喜あふれて
理想の王座を占むる者 われ等
早稲田 早稲田
覇者 覇者 早稲田



「紺碧の空」誕生の由来
 早稲田大学応援歌「紺碧の空」は昭和六年春大学体育会應援部創設にあたり、歌詞は應援部により学内学生から公募して誕生した。
  作詞住治男  作曲:古関裕而
 選者の西条八十教授は高等師範部三年生の住治男氏の「紺碧の空を一字の修正もなく選出した。
 作曲は当時無名の若き新進作曲家であった古関裕而氏に決定した。
 この応援歌は同年春の早慶戦で披露され、今や代表的応援歌として広く愛唱されている。
 碑は歌の生誕四十五年を記念して、 春秋会の募金活動により昭和五十一年に建碑された。
 ここに 「紺碧の空」 誕生八十年、 春秋会設立六十周年にあたり、 その由来を記す。





◆大隈記念講堂





◆庭園の風景







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