2022/01/25 錦糸町・両国散歩 01 錦糸町/本明寺/法恩寺/エアリアル・アート・ダンス・プロジェクト/紅葉橋/篠塚子育地蔵尊

錦糸町駅から路地に入り、北上する。
法恩寺のあとは蔵前橋通りを西へ進む。




錦糸町

後半戦スタートのJR総武線錦糸町駅













◆本明寺











法恩寺


法恩寺参道



法恩寺 開山本住院日住上人 開基 太田道灌
 道灌公は長禄二年(1458年)凡そ五四○年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
 時移り、徳川家康江戸幕府を開くにあたり、慶長十年(1605年)神田柳原へ移転。その後、慶安二年(1649年)谷中清水町へ移り、元禄八年(1595年)幕府の命により、現在地に移された。
 現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、二十ケ寺を擁したと伝えられる。
 当地を太平町と称するのは、太田道灌公の 太 及び平河山の 平 を合わせたものである。
 大正大震災、昭和二十年三月十日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和二十九年十月現在の堂宇が建立された。



善行院


陽運院


千栄院



大黒天


観世音菩薩



法恩寺墓地


法泉院


法恩寺



 長禄二(一四五八)年、太田道灌江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に城内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四(一五二四年)道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院から法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元(一六八八)年に現在の地に定められました。
 鬼平犯科帳では数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店(ひしや)で湯豆腐と熱燗で二十余年振りに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引する様子が描かれています。



 寺伝によれば、古来法恩寺は、平河村(後の江戸城平河口付近にあった村)にあった小さな草庵で、長禄元年(1459)に太田道灌の助成により、一寺造営を果たしました。当初は道灌が帰依した学徳兼備の日住上人の院号をとって本住院と号しましたが、大永四年(1524)に法恩寺に改めたと伝えられております。寺号は道灌の子資康の法号「法恩斎日恵」にちなだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされています。そして慶長十年(1605)頃に神田柳原へ移転し、慶安二年(1649)頃には再び所在を替えて谷中の清水坂に落ち着きました。また元禄二年(1689)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を擁する寺院として栄えることになりました。天保七年(1836)に出版された『江戸名所図会』にはそうした当寺の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。


法恩寺文化財

太田氏七代供養塔
 太田氏七代供養塔は、法恩寺が設けたものと考えられています。既存の五輪塔を転用したと思われるもので、地輪に太田資清、資長(道灌)、資康、資高、康資、重正、資宗(初代浜松藩主)ら名族太田氏七代の法号と忌日が刻まれています。太田氏歴代のうち、とくに資清から資宗まで七名の法号を刻む点が、次のような寺伝との関連を想わせます。
 太田氏は元来、道灌開基の法恩寺菩提寺とした。しかし、北条氏に仇を返すが否かをめぐって住持と対立した康資が寺を変え、本行寺(現荒川区)を菩提寺とした。だが後に康資の怒りも晴れ、以後、資宗の代まで道灌霊像への参詣が続いた(『寺誌取調書上』)。
 法恩寺は、太田道灌開基と言われています。太田氏七代供養塔は、その法恩寺が太田氏との関係継続の歴史を意識して設けた記念物であったと思われます。平成十二年三月二十三日に墨田区登録文化財となりました(同三十年三月二十二日に種別及び名称を変更しました)。



旗本太田資同(すけあつ)墓碑
 旗本太田資同墓碑は、家祖政資(まさすけ)の代より法恩寺を葬地とした旗本太田氏の五代目の当主、資同の墓碑です。
 一說によれば、太田氏は元来市井(しせい)の医家で、初代政資の姉が德川家宣(いえのぶ)の子 (家千代)を産んだことから旗本にとり立てられました(知行高三千石)。資同は、大名太田資宗(すけむね)(初代浜松藩主)の家系から分かれた格上の旗本、太田資倍 (知行高五千石)の実子(二男)でし たが、医家から武家に転じたこの新興の旗本、太田氏に養子入りLて家督を相続しました。
 家譜によれば、資同は、新興の旗本太田氏において初めて布衣(ほい)以上の地位 (式日に無紋の狩衣(かりぎぬ)を着用寸ることが許され、旗本の立身の証しとされた身分)を得た人物で、四代にわたる事実上無役の状態を脱するうえで画期的な世代となったこ とが知られます。
 買同の墓碑には、彼の法号と忌日(きにち)、そして彼が生前に書き著した遺言が刻まれています。遺言は、公儀への滅私的奉仕を旨とする武家の心得を說くもので、近世武家の倫理をよく示しています。
 資同の墓碑は、旗本太田氏歷代の墓碑の中で唯一残る稀少なものであり、銘文には歴史資料とLての意義も認められます。このため平成三十年三月二十二日に墨田区登録文化財となりました。



平川清水稲荷大明神



当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い太田道灌公も是を愛でゝ
 武蔵野の 
  小川の清水絶えやらで
   岸のねせりを洗いことすれ
と詠まれている 当時のその小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内に其の碑柱が伝わって由緒を物語っている


鐘楼三重塔



 『鐘楼三重塔』は昭和七年の『宗祖六百五十遠忌」に平和の象徴、関東大震災後の復興のシンボルとして、鉄筋コンクリート製で建立され、先の大戦の中でも戦火を耐えて今目に至っております。三重塔は、正式には肩額にあるように『経石塔」といい、お経の一語一語を書いた石を奉安したもので、鐘の響きと共に経文も響きわたっております。
 昭和五十三年の『宗祖七百遠忌』には、改修と共に、戦時中に軍事供出されていた 鐘も新たに作られました。平成二十二年に、『この平和の象徴である三重塔は未来へ残さなくてはいけない』と、耐震を含めた大改修が行われました。
 法華経の教えが、鐘の響きと共に広まるように、世界の人々が幸せでありますように・・・。


道灌公記念碑


花塚



 花を愛する心は 人生をいつくしむ心と同じである
 四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたところに其の花は咲かない 日本人は花にさまざまな思いを託してきた 神を祭り仏に供えることから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである 
 古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和37年(1962)9月中村理運氏の発願により花の道につながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして安芸の彼岸には花供養が営まれている 敬虔な人々の心は また美しい日本の花である


はさみ塚


日蓮上人像


石塔

庚申塔か?










エアリアル・アート・ダンス・プロジェクト

東京のエアリアルスタジオ・エアリアルアートダンスプロジェクト(墨田区) エアリアル専門スタジオ 空中ダンスクラス 空中エクササイズ イベント出演

『「エアリアル」という空中演技のパフォーマー育成と指導をしています。』
とのこと。










◆紅葉橋

下は大横川。













◆篠塚子育地蔵尊



 この地蔵尊 は一條天皇 の治世(993年~996年)に恵心禅都によって像刻されたと伝えられています。当時、北越地方 に飢饉が発生していたことから、豊穣・繁栄が祈願され、たちまち飢饉を収束させたといわれます。
 元弘三年(1333年)、新田義貞 は北条氏 打倒のための兵を挙げましたが、当初は苦戦を強いられました。当時姉ヶ崎に安置されていた地蔵尊の霊験あらたかなことを聞き及んだ義貞は、家臣の篠塚五郎政景(篠塚政景)に命じて地蔵尊を新田庄 世良田(群馬県太田市 )に迎え、みごとに鎌倉の北条氏を滅ぼしました。戦勝後の建武 元年、地蔵尊霊夢に導かれた政景は、本所 のこの地に地蔵尊を安置し、堂宇 を建立しました。以来、世良田地蔵尊、または篠塚地蔵尊と呼ばれました。(『本所区史』には別の来歴が記されています。)
 この地蔵尊に掛けられた布を妊婦の腹に巻くと、いかなる難産もかならず安産にかわる、として人々から厚く信仰されていきました。その後、太田道灌 がこの地蔵尊に延命山栄壽院の名を与え寺院を建立し庇護しました。江戸時代 には徳川家光 からも帰依を受け、勅願寺 となり、安産の地蔵 さまとして江戸 の人々に知れ渡り、毎月四の日の縁日には多くの参拝者でにぎわいました。大正 12年(1923年)の関東大震災 の難は逃れましたが震災復興計画 に基づき、地蔵堂 以外の堂宇は現在の足立区 竹ノ塚 に遷座 しました。
 昭和二十年(1945年)の東京大空襲 によって地蔵堂は消失しましたが、地蔵尊は竹ノ塚に運ばれて無事でした。昭和四十三年(1968年)には旧地の地蔵堂を建て替え、新たに本尊の分体を造立して安置しました。











続く。