2021/10/29 平井・亀戸散歩 02 わかばと公園/平井の渡し跡/平井諏訪神社/橙明寺/下平井の観世音菩薩浅草道石造道標/平井橋

旧中川沿いを北東へ進む。
平井橋で旧中川を渡る。
橋の向こう側は墨田区




わかばと公園











◆平井の渡し跡

一度来たことがある。
2018/02/24 平井散歩 01 平井駅/平井諏訪神社/燈明寺/平井橋/平井の渡し跡 - ovanの社会科見学



 平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』下平井村の項には、「当村(下平井村)の預る所なれば平井渡とよべり」とあります。渡しは江戸時代の初めに設けられ、船1艘で往来の便に供していたと書かれています。
 『江戸名所図会』の「平井聖天宮」の絵には、中川に「平井渡」が描かれ、江戸川区側の正面には鳥居が建てられています。
 行徳道は、江戸と下総の行徳を結ぶ道で、平井の渡しから江戸川区を東南に下り、今井の渡しで江戸川をわたって行徳へ渡りました。渡しはこの説明板からまっすぐ土手にあがった川岸で、説明板脇の細い坂道が当時の行徳道でした。
 明治三十二年(1899)、渡しのやや東に木橋の平井橋が架けられて、渡しは廃止されました。平井橋は、大正十四年(1925)に、鉄橋に架けかえられ、昭和五十五年(1980)に現在の橋になりました。
 その後、平成二十年(2008)の旧中川の景観整備によって、護岸が現在のように整備されております。











◆平井諏訪神社

一度来たことがある。
2018/02/24 平井散歩 01 平井駅/平井諏訪神社/燈明寺/平井橋/平井の渡し跡 - ovanの社会科見学



 祭神は建御名方命で、享保年間(1716-1735)、燈明寺の惠祐法印が、出身地である信州の諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられます。
 境内中央の社殿は、昭和四十二年に命じ百年を記念して建てられ(四十四年完成)、その旧社殿が境内北隅に移築されています。
諏訪神社旧本殿
天保十四年(1843)の再建で、外壁彫刻が江戸後期の神社建築の過渡的な特色をよく伝えています。(江戸川区教育委員会掲示より)
■平井の富士塚
大正九年頃、旧下平井村の丸富講の人びとによって造られました。境内の絵馬堂には、丸富講が大正二年に奉納した図額もあります。


諏訪神社旧本殿



 天保十四年(1843)に下平井村の人びとによって再建された社殿です。昭和四十二年(1967)に明治百年を記念して新しく本殿が建てられることになり(同44年完成)、現在地に移されて稲荷神社となりました。
 建築樣式は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、外部に施された彩色の装飾彫刻は江戸時代後期の神社建築の特色をよく表しています。なかでも、向拝紅梁(こうはいこうりょう)に巻きつく龍や木鼻(きばな)に施された籠(かご)彫りの唐獅子などに精緻な彫刻技術をみることができます。
 なお、旧本殿の拝殿は松江1-1-7に鎮座する福荷神社(赤稲荷) の社殿と して移築されています。


稲荷神社


稲荷塚


平井の富士塚




  富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
 平井の富士塚は、大正9年(1920)ごろ、旧下平井村の丸星講の人たちによって造られました。登山道が2つに分かれ、1本は頂上に、もう1本は中腹の小御嶽神社に通じています。頂上の石祠には、大正9年(1920)の造立銘があり、小御嶽神社の前には、丸富の講紋と、「小御嶽神社」と刻まれた石祠があります。塚の高さは約1.5メートルです。
 境内の絵馬堂の内壁には、丸富講が大正2年(1913)に奉納した絵馬があります。


楽殿


平井諏訪児童遊園

境内の一部が公園になっていた。


鳥居











◆橙明寺

こちらも一度来たことがある。
2018/02/24 平井散歩 01 平井駅/平井諏訪神社/燈明寺/平井橋/平井の渡し跡 - ovanの社会科見学



 新義真言宗で、明雅山明王院と号します。山門を入った正面に見える聖天堂は燈明寺の別堂で妻沼聖天、浅草待乳山聖天とならぶ関東三聖天の一つとして知られています。
 草創は平安時代と伝えられますが、江戸時代中期には荒廃し 享保年間(1716~35)に京都から赴任した恵祐法印によって再興されました。
 歴代将軍が鷹狩りの時に御膳所に使用したほか「江戸名所図会」にも描かれ、文人墨客も多く参詣しています。
 その後、安政地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあいましたが、 当時の関澄道貫主(二十六世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅な本堂が建立されました。
 澄道貫主文人としても知られ、正岡子規伊藤左千夫らと親交が深く、境内の茶室は左千夫の設計によるものです。


聖天堂


鐘楼


山門











◆下平井の観世音菩薩浅草道石造道標



 道標は、明治以降の地図と比較して精度の低いとされる絵地図類を補うものであり、江戸時代の当地域をめぐる交通史上のきわめて有用な歴史資料です。
 この道標は、行徳道と呼ばれた旧道上にあります。行徳道は、旧中川平井の渡しから東小松川村、西之江村、東一之江村を経て、今井の渡しに達する道筋でした。元の位置はここから東のつきあたりにあり、浅草方面から来た人が平井の渡しを越えて先ず目にした道標でした。「享保十九年(1734)甲寅」の観世音菩薩像右脇に「あさくさ道」左脇に「是より佐り、ぎやうとく道」とあります。平成十七年(2005)十二月、現在地へ移設しました。












◆平井橋

下は旧中川。














続く。