2023/05/22 四ツ谷・四谷三丁目駅 02 宗福寺/戒行寺坂 (油揚坂)/戒行寺/西應寺/勝興寺/永心寺/闇(くらやみ)坂

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/05/22/190000




◆宗福寺


源清麿の墓



 江戸時代後期の刀工の名匠・源清麿は、本名を山浦環といい文化十年(1813) 信濃国小諸の赤岩村(現在の長野県東御市)に生まれた。
 はじめは、上田の刀工・河村寿隆(としたか)について鍛冶を学び、天保六年(1835) 江戸に出て、幕臣・窪田清音(すがね)のもとで兵学を学ぶが、刀工として評価した清音の好意でその屋敷内に鍛冶場を設け、刀工として活動した。
 その後、四谷北伊賀町(現在の四谷三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、清音から一字をもらい源清麿と称した。新々刀(江戸後時代期の刀の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830~48)に活躍し、水心子正秀・大慶直胤とともに江戸三作と称された。また、四谷に住んだことから「四谷正宗」の異名をとった。
 嘉永七年(1854)十一月十四日、四十二歳で自害した。
 源清麿の墓と並んで、水心子正秀らの墓碑も建っている。本所の西光寺に営まれたこの墓は、火災や関東大震災で焼損したものを、昭和四〇年(1965) 宗福寺境内で再興したものである。


山門





◆戒行寺坂 (油揚坂)



 戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっ
ていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図会』)。





◆戒行寺

『1595年(文禄4年)、玉泉院日養によって開山された。元々は現在の千代田区麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地に移転している。一説では現在地に移転したのは明暦年間(1655年~1658年)とするものもある。
かつての墓地には、一宮藩藩主家の加納家を始め、多くの旗本御家人諸家の墓があったが、典型的な武家寺であったため、明治以降は士族の没落もあって寺運衰微し、無縁仏化した家もあったという。現在、墓地は杉並区に移転している。そんな中で、長谷川平蔵宣以の供養碑は、今なお当地に残っている。 』
戒行寺 - Wikipedia


長谷川平蔵の墓



 池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の主人公である火付盗賊改の鬼平長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6の12)の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲州築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川町に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕えて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヵ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積みたてて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。
 寛政7年(1795)、 50歳で病没、当山に葬られた。
 尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬られている。
 安部式部信旨   享保9年2月24日(1724・3・19)卒
 桑嶋肥後守政恒  宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒
 山岡豊前守景之  明和3年2月4日(1766・3・14)卒
 長谷川備中守宣雄 安永2年6月22日(1773・8・10)卒
 菅沼主膳正虎常  寛改元年4月16日(1789・5・10)卒 


山門





◆西應寺


榊原鍵吉の墓

 幕末から明治にかけて活躍した剣客榊原鍵吉は、天保元年(1830) 江戸の麻布広尾に生まれた。
 十二歳のとき、麻布狸穴の直心影流(じきしんかげりゅう) 男谷信友(おたにのぶとも)に入門し、嘉永二年(1849)に免許をうける。
 安政三年(1856) 幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久二年(1862)には師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。慶応二年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元(1868) 八月、徳川家達に従って静岡に移住した。
 その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治六年(1873)撃剣会を発足させ、明治維新後に衰退した剣術の再興と普及に努めた。
 明治二十七年(1894)九月十一日死去したが、亡くなるまで髷(まげ)を切らず、最後の剣客と称された。


西應寺の梵鐘

 西應寺の第四世住職恵白の発願により、正徳二年(1712)に鋳造された銅造の梵鐘である。
 高さ130.5cm、口径703cmで、江戸鋳物師小沼播磨守藤原長政が製作した。
 全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴が良く表わされている。また銘文からは、梵鐘鋳造の由来や六七〇名に及ぶ寄進者の名を知ることができ、地域史料としての価値も高いといえる。
 区内の江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく、大変貴重である。


山門





◆勝興寺






◆永心寺

『1604年(慶長9年)、明巌舜洞によって開山された。元々は現在の千代田区麹町に位置していたが、1634年(寛永11年)に現在地に移転している。
墓地には、「狂歌三内子」と称された女流狂歌師ひまの内子の墓があったというが、現在所在不明となっている。
四谷・市谷界隈には、どういうわけか狂歌師が多く住んでいた。居住者として、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、大田南畝(おおた なんぽ)、朱楽菅江(あけら かんこう)、平秩東作(へづつ とうさく)、飛鹿馬蹄(とぶしか ばてい)などがいる。 』
永心寺 (新宿区) - Wikipedia



永心寺本堂
 享保十一年(1726)の建立で、北を正面とする方丈型の平面形式をもち、正面中央に向拝(こうはい)を設ける。
 主要部分は、正面側三室、奥側三室からなる整形二列六室で構成され、これに広縁(ひろえん)と向拝、背後に増築部が附属する。
 二列六室の中央奥を内陣、手前を前室風(ぜんしつふう)の扱いとする部屋間の接続関係は、二室を合わせて奥行きのある礼拝空間を生み出している。左右の部屋は居室的性格が強く、客殿風である。
 区内では希少な江戸時代の寺院建築であり、六部屋を中心とする主要部分は、創建時の姿をよく残している。江戸時代に形成された寺町の景観を伝える建造物として、また区内に現存する数少ない江戸時代中期の寺院建築として貴重である。



永心寺山門
 薬医門形式であり 切妻屋根を掛け両脇に二戸を有する。
 山門に掛けられた扁額には、慶応三年(1867)の年号が刻まれているが、山門の建設に伴う山門の建設に伴うものであるかは不明である。山門に施された絵様は、元禄年間から十八世紀お、本堂と山門では中頃の作例に類似する特徴を持つ。なお、本堂と山門では用いられている造営尺(ぞうえいしゃく)が異なるため、建造時期は異なるため、建造時期は異なるものと推定される。
 区内では希少な江戸時代の山門であり、保存状態は概ね良好である。区内で震災や戦災による被害を大きく受けず
に本堂と山門が揃って残っている点は貴重であり、江戸時代以来の寺町の景観を残す例として重要である。






◆闇(くらやみ)坂

坂上



坂下。



 この坂の左右にある松巌寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという(『御府内備考」)。





続く。
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