2021/11/18 高円寺散歩 03 梅里公園/宗延寺/真盛寺/本仏寺/修行寺/妙祝寺/西方寺

やっぱり高円寺南側エリアを散歩。




◆梅里公園




作品名とか何もわからなかった。












宗延寺



 報恩山宗延寺日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮聖人像です。当寺は天正初年頃、相模小田原城下の郷士報新宗延が居宅を道場としたのが開創と伝えられています。
 その後、天正十九年(1591)、開基でもある二世日俒上人が宗風高揚のため本尊の祖師像を背負い、経巻を懐にして江戸に移り、下谷車坂(現台東区東上野)に寺地を賜って、寺の基礎をきずきました。これより寺運の発展は著しく、本山久遠寺の直末触頭をつとめ、江戸中期には寺中に塔頭5坊をおく大寺となったといわれます。
 明治維新後、火災により本堂・客殿・庫裡などを焼失し、直ちに再建されましたが、大正八年区画整理のため現在地に移転してきました。
 本尊の祖師像は通称「読経の祖師」と呼ばれ、江戸十祖師の一つに数えられて江戸市民に親しまれたものです。また貞享元年(1684)若年寄稲葉正休大老堀田正俊を刃傷した際に用いた刀(初代虎徹)が寺宝として保存されています。
 墓地には正休の墓石のほか、蘭学者馬場穀里・足立渓隣、などの墓があります。
 なお、客殿は大正天皇の御産殿を移築したものです。


寿福稲荷大明神


客殿


山門












◆真盛寺



 当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。
 「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永八年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和3年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正11年に現在の地に移転しました。
 当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。
 本所から移築した本堂は安永五年(1776)、元三大師堂は文政三年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。
また客殿・庫裡は明治天皇行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。
 境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。
 なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています。

紙本著色真観上人画像/真盛寺客殿・書院及び庫裏/紙本著色四季耕作図屏風

紙本著色真観上人画像
 この屏風は、六曲一双の大画面に、苗の準備から、草取り、灌漑、稲刈り、俵詰めまで二十に近い稲作作業の様子が描かれた四季工作図です。農作業の外に田植踊り、獅子舞、収穫祭など、農村の四季の風物が華やかに描かれていることが画面に効果を与え、やまと絵の四季耕作図の中でも優品となっています。筆者の内記は、土佐派の分派である住吉家中京の名手と言われ、宮廷や幕府の御用をつとめた住吉廣守で、現存する作品があまり知られておらず、六曲一双の大作は大変貴重です。

真盛寺客殿・書院及び庫裏
 客殿及び庫裏は明治二十六年旧細川侯爵邸として、当時の代表的宮廷建築家木子清敬(きごきよよし)により建設され、大正十四年にその主要部分をこの地に移築したものです。宮殿は玄関棟と奥殿棟の二棟からなり、共に伝統的な書院造で、内部の杉戸には細川家の御抱絵師杉谷雪穂と近藤撫仙の手になる花鳥・山水図が描かれています。客殿・庫裏は明治中期における上流階級住宅の遺構として、建築史、住宅史並びに障壁画史の上において、また書院は江戸末期の江戸市中寺院の庫裏遺構として貴重です。

紙本著色四季耕作図屏風
 縦84.7cm、横40.6cm、落款、印章はなく作者は不明であるが、制作年代は江戸時代前期と考えられる。図上の賛七行は真観上人の師周海の筆である。
 像主真観上人は真盛寺の開基で、伊賀国三重県)に生まれ、寛永五年(1628)江戸に下り、まず川越千波中院(埼玉県川越市)広海僧正、ついで上野東叡山凌雲院(台東区)周海僧正に随従し、寛永八年(1631)湯島天神前樹木谷(文京区)に真盛寺(天台宗真盛派)を創建、寛文四年(1664)に入寂したといわれている。
 真観上人が格挟間(こうざま)金具付きの札盤上に坐す本図は、目鼻、耳の大きな像主の晩年の姿を描くが、それが寿像であるか遺像であるかは決めかねるものの、像主を荘厳化しようとする意図のくみとれる点より見れば、上人没後間もなくの制作である可能性が強い。
 江戸時代前期の天台宗系僧侶肖像画としては寛永寺慈眼大師像(探幽筆)などが著名であるが、本図はそれらと比べてもさほど遜色もなく、おそらく名のある画家の手によるものと思われる。


元三大師


山門













◆本仏寺












◆修行寺



 当寺は、如説山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊像です。
 「文政寺社書上」によると、寛永三年(1626)、下総国葛飾郡平賀村(現千葉県松戸市)の本山本土寺の末寺として、修行院日城上人により麹町に開創されました。その後、江戸市街の整理のため寛永十一年(1634)に赤坂一ツ木へ移転し、さらに明暦の大火(1657)の後、幕府の防火対策のため万冶元年(1658)に1500坪の拝領地をもって市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転しました。
 貞享元年(1684)、本土寺21世貫首日信上人は、本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)を修行寺に定め、明治初期まで院代(住職代理)を置いて日常の法務をさせていました。また本土寺貫首の多くは貫首を引退すると修行寺山内智光庵に隠棲し、本土寺貫首の墓塔は修行寺にも残されました(如説山修行寺略史)。
 元禄八年(1695)、広瀬藩出雲国松江藩支藩)の藩主松平近栄の室、満姫が本土寺に奉納した七面大明神の木坐像が修行寺本堂に安置され、享保十六年(1731)には、松平家からの寄付もあって七面堂が完成しました。江戸の町名主がまとめた「東都歳時記」には「七面参」の寺院の一つとして記されています。また文化九年(1812)、法華信者であった尾張藩附家老の成瀬正典が生前墓を建立し、一族の墓も十数基建てられました。
 現在地には、都市計画を進める東京市が明治三十六年(1903)に市内寺院へ示した方針もあって、大正元年(1912)に移転しました。昭和二十年(1945)5月25日に空襲を受け、堂宇など建物すべてが焼失しましたが、のちに再建されました。
 墓地には、能楽シテ方金春流の別家金春八左衛門十世安冶の墓などがあります。













◆妙祝寺



 当寺は、日栄山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅並びに日蓮上人像です。
開創は「文政寺社書上」によると、寛永五年(1628)江戸麻布桜田町(現港区六本木)とされていますが、度々の類焼により古記録を焼失したため詳細については不明です。
 開山は興善院日為聖人、開基は常法院殿妙祝日栄大姉といいます。
 開山日為は、千葉の生まれで、所々に寺院を起立していますが、当寺を改葬の後は寺を弟子に譲り、寛永10年に港区元麻布の妙善寺を起立し本山小湊(現千葉県鴨川市)の誕生寺の二十世となりました。
 開基日栄大姉は、伊予西条藩主一柳監物直盛の室で、家伝の開運不動尊の諸霊験に感銘し、桜田町の邸内に御堂を開創したのが当寺の始まりといわれ、生前、開山の日為と親子の縁を結び大姉の死後、日為がその恩に感じ、菩提のため大姉の法名に因んで山号日栄山、寺号を妙祝寺としました。
 以来、一柳家一族の菩提寺となり、墓地には累代の立派な墓があります。
 大正三年(1914)、寺院の発展をはかるため現在地へ移転してきましたが、大正12年9月の関東大震災で堂宇が倒壊し、大正十四年に再建され、さらに昭和十一年(1936)に現在のような伽藍を再興しました。
 文化財としては、江戸初期に作られたといわれる不動明王像などがあります。













◆西方寺



 当寺は、松苔山峯巌院と号する浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来坐像です。
 「文政寺社書上」によると、元和三年(1617)四谷追分(現新宿区新宿3丁目23番・新宿駅北側付近)に開山である本蓮社心誉利通により開創されました。一説には慶長二年(1597)開創ともいわれています。
 開基は、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長といわれ、その由緒を称え、忠長の法号「峯巌院」を寺号とし、忠長の豊臣家との縁により、寺紋は「五三の桐」にしたと伝えられています。
 その後も寺地を替えることなく四谷追分にありましたが、文政十二年(1829)、明治三十一年と二度の火災に遭い、大正9年、中央線の拡幅と道路の拡張のため現在地へ移転してきました。
昭和20年5月、戦災により堂宇の悉くを焼失しました。現在の伽藍は、昭和56年5月に再興されたものです。
 当寺の所蔵する「絹本著色阿弥陀三尊来迎図」は、十四世紀仏画の白眉といわれています。
 その他、境内には承応二年(1653)銘の六観音石幢、延宝七年(1679)銘の如意輪観音像など多数の石仏や、明治の豪商山城屋和助の墓、あるいは食鳥を供養する鳥塚(明治38年造立)や外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔などがあります。
 また、墓地中央の供養塔には、区制施行以来の区内御許不明行旅死亡人の遺骨が安置されています。

絹本著色阿弥陀三尊來迎図 一幅
 本図は阿弥陀如来が観世音菩薩と勢至菩薩を従えて、往生者を迎えに来る典型的な「阿弥陀三尊來迎図」で、鎌倉末期から南北朝期(十四世紀)のものと推定されます。
 三尊の間に空間を作り出し、その中に穏やかに翻る雲や天衣を描く作者の技量は高く、長さ220㎝に及ぶ画面の大きさは、現存する仏画では最大級のものです。
 更に、四周を飾る描表装がほぼ完全に残されているという点でも、当時の仏画の好例として貴重なものです。

石造観音六面幢
 この六面幢は総高262cmの単制六面幢で、笠にワラビ手の飾りがついた比較的類例の少ないものです。造立年代は承応二年(1653)で建立者は西方寺第八世単巻上人と言われています。六面幢の大半が六地蔵なのに比べ、この六面幢は六観音を浮き彫りにしているのが特徴です。又念仏供養のために造立された六観音のひとつ、聖観音像の下に「此一躰者、庚申為供養」と記していることも注目すべき点です。形態も優れ江戸時代初期の庚申信仰の資料として大変価値が高いものです。


鐘楼


山門












なぜこんなにお寺が集まっているのかは情報収集中。
ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。
(o*。_。)oペコッ