2021/10/20 葛西散歩 04 野瀬文橋/妙光寺/古川橋/鏡前児童遊園/稲荷神社/水神宮/新川橋

まだまだ細長い古川親水公園沿いに歩き、新川橋で新川を渡る。
このあたりで公園が終わっている。





◆野瀬文橋

下は古川。






名所 古川
 この川は、もと江戸川の旧河道で天正十八年(1590)家康が江戸城に入ってから、行徳の塩を船で運ぶ水路として利用された。その後、寛永六年(1629)新川が開かれたので「古川」と呼ばれるようになった。
 時は流れて、この田園地帯にも都市化の波が押し寄せ、古川もその中に埋もれ、川としての機能も生命を失われようとした。これを憂いた「江戸川区長」は、親水河川として活用することを決意、昭和四十七年十二月着工同四十九年四月竣工のスピードで、古川は区民の遊びや憩いの場として魅つた、そして優れた工法は「全建賞」の栄誉に輝き、また古川は中学教科書や、遠く海外にも紹介された。
 これからも古川のきれいな流れは、多くの人々に愛され親しまれて行くことであろう。












妙光寺



 妙光寺日蓮宗で、栄長山常泉院と号し、通称「赤門寺」といわれます。開山は日能上人(天正十三年・1585没)です。「新編武蔵風土記稿」によると、当寺には「十界勧請の本尊。及び祖師を安す」とあり、この祖師が現本尊です。境内の七面殿には「海中出現七面大明神」があり、鬼子母神や疱瘡の神も祀られています。 寺宝としては、日乾・日遠・日重筆の曼荼羅があります。
■文禄三年(1594)の作で、作者は不明です。像高21.6cmの小さな坐像ですが、容姿がよく整っています。ヒノキ材の寄木造りで、目は玉眼、紫色の衣と金襴の袈裟を着け、笏とお経の巻物を持っています。


七面殿


山門












◆古川橋

下は古川。





桜?



冬に咲く桜かな?




みっけ♪












◆鏡前児童遊園












◆稲荷神社













◆水神宮













新川橋






新川
 かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。
 天正十八年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀、小名木川と共に開削が計画され、実行されました。
 寛永六年(1629年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
 新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。
 しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。 さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。
 その後、平成5年より耐震護岸整備・親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。

新川千本桜
 平成十九年四月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を始めました。新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所として、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。












続く。