2022/01/01 墨田区横川散歩 03 撞木橋の由来碑/滝の鐘跡/東横川岸高架/小諸藩牧野屋敷跡大名下屋敷/大横川親水公園/長崎橋跡/錦糸町駅北口遺跡

錦糸町駅西側エリアを大横に沿って北上。





◆撞木橋の由来碑

木橋(しゅぼくばし)



ここに架かっていた撞木橋は万治2年(1659)当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋1丁目より、同緑4丁目の大横川に架けられました
 最初は長さ10間、幅2間の木橋でしたが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年(1330)7月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年(1987)10月に撤去されました。
 なお、ここは堅川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられましたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われます。











◆時の鐘跡



 大横川の左岸には時の鐘を撞く鐘楼がありました。
 江戸時代、時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城で打ち出され太鼓の音(のちに日本橋本石町の鐘楼の鐘)を、周辺の鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知らせていきました。
 従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが普通でした。
 また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さが変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時)だったのです。
 日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の近くには時鐘屋敷(緑四丁目十番・二十一番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人が待機していたそうです。











◆東横川岸高架

こちらをくぐって線路の反対側(北側)












小諸藩牧野屋敷跡大名下屋敷

前にも来たけどやっぱり説明版などは見当たらなかった。
2021/11/12 江東橋散歩 02 小諸藩牧野屋敷大名志茂屋敷跡/江東橋/勝海舟居住の地/五柱稲荷神社/浅香山部屋/松の湯 - ovanの社会科見学











◆大横川親水公園

この碑の日記2度目。
かなり細長い敷地なので、同じ公園である。




近くにあった観光マップ











◆長崎橋跡




 ここにあった長崎橋は、元禄10年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、両名によって、墨田区亀沢4丁目より同錦糸1丁目に架けられました。
 最初は長さ10間(18.0m)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年(1929)6月には、鋼橋(トラス)になりました。
 この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。
 なお、橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名づけられ、永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。












錦糸町駅北口遺跡(小諸藩下屋敷他)

上記「小諸藩下屋敷」と関係があると思われる。
遺跡についてはこちらに詳しく載っていた。
東京都墨田区 墨田区錦糸町駅北口遺跡 I - 全国遺跡報告総覧











続く。