2021/11/12 江東橋散歩 04 長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡/菊川駅/菊川橋/夢違之地蔵尊/菊川橋児童遊園/住吉一丁目児童遊園/菊川橋際公衆トイレ

菊川橋で大横川を渡った後は北へ向かう。





長谷川平蔵遠山金四郎屋敷跡



 この一帯は江戸時代に火付盗賊改役、長谷川平蔵江戸町奉行、遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らしていた屋敷跡です。長谷川家は家禄400石の旗本でした。
 平蔵宣以19歳の明治元年1764)父平蔵宣雄の屋敷替えにより築地から本所三の箸通り菊川の1200坪余りの屋敷へ移りました。 宣以は火付盗賊改役として通例2~3年の任期のところ、没するまで8年に及び在職し盗賊逮捕に実績を上げました。 池波丈太郎の「鬼平犯科帳」はその情景を彷彿させます。 また職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場(にんそくよせば)を提案、実現させました。
 寛政七年(1759)病のために50歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化三年(1846)に孫の4代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷になりました。 遠山金四郎は江戸北町奉行天保11年(1840)に任命されました。
 金四郎は天保十四年(1843)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化二年(1845)3月再び南町奉行として任命されました。 以後、名奉行の名を残す評判を集め「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。 天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草若町に再生したことは金四郎の尽力によると伝えられています。 この地は江戸の町人感覚にも通じ治安に貢献した二人のゆかりの土地です。















菊川駅

都営新宿線菊川駅



近くにあった地図














◆菊川橋

下は大横川。















◆夢違之地蔵尊



  一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かに
してそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。














◆菊川橋児童遊園















◆住吉一丁目児童遊園














◆菊川橋際公衆トイレ

講演だと思って写真撮ったんだけど、後で調べてもトイレ名しか出てこなかった(w














続く。