由来碑
當寺は開山盛岳栄見大和尚(江戸鮫ヶ橋龍谷寺中興二世、元禄八年四月二十一日寂)によって開創された。実はこの開創は慶安年間に松平直政公(松江藩主、徳川家康の孫)が下屋敷内(十二町四面)の西方に観音堂一宇を建立したことによる。万治二年の頃屋敷は引き払われ、跡地を開拓した上保谷村の三右衛門は、出雲新田(初期名称)名主となり村の寺院建設の基礎として観音堂(境内一町許)を継承護持した。後に二代目兵右衛門は天和二年九月三右衛門を没後に当所に埋葬し、石像(阿弥陀如来像現存)を造立供養した。貞享二年右場所は龍谷寺に寄進され、同寺二世栄見和尚代に観音像を安置した。
かくて江戸三ヶ寺の計らいに困り公儀公認の曹洞宗派寺院の観音院となる。江戸期より文化九年、文政八年、昭和五年十二月と三度の火災により、相続された旧伽藍は喪失した。昭和十五年五月、当寺二十六世大忍琢中和尚、一応假本堂を建立し復興を発願した。その意志は二十七世大禁琢也和尚に継がれ、二十九世瑞雲正行和尚に至って本堂、客殿を建立し、昭和五十七年十一月大本山永平寺七十六世秦慧玉禅師親修により落慶法要を厳修する。十年を経て山門、鐘楼堂、総門、庫裡等各諸堂が完逐され、平成七年十一月同本山七十八世宮崎奕保禅師を拝請し落慶円成した。
茲に当地開発の礎を築いた恩人、松平直政公(法名 高真院殿歓誉一空道喜大居士)を顕彰する。願わくは、檀信十方功徳主の福寿無量、諸縁吉祥ならんことを。
◆観音院の来迎阿弥陀如来像
この観音院の来迎阿弥陀如来像は、上保谷村(旧保谷市)から移り住み、松平家(松江藩主の松平出羽守直政 〈1601〜1666〉、祖父は徳川家康、父は家康三男結城秀康)の下屋敷跡地を開拓して出雲新田(境新田、のちの境村)を開いた保谷三右衛門(下田)の追善のために、天和二年(1682)に造立されたものである。 観音院は、下屋敷内西方に直政によって建立された観音堂とこの墓所から幕府公認の村の寺院として発展しており、境新田村の開発のいわれを語る重要な資料である。
美術的にみても螺髪・肉髻の単純化、尊顔の素朴な微笑、印相の表情の巧みな表現等の彫法は、本市所在の石仏としては最も古く、代表的な美しさを持っている。
なんかものすごく歴史とかありそうなんで調べてみた。
「ロンジャーノ」はイタリアの地。
ロンジャーノ - Wikipedia
これ以上は調べられなかった・・・・。
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