2023/04/19 妙寿寺


『妙寿寺(みょうじゅじ)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。法華宗(本門流)に属し[2]、当初は「妙感寺」と号した。大本山妙蓮寺末。創建当時は江戸谷中にあり、1662年(寛文2年)に武蔵国葛飾郡猿江村に移転した後に関東大震災により当地に再移転した。妙寿寺は、通称「烏山寺町」と呼ばれる26の寺院が立ち並ぶ地域に最初に移転した寺院の1つである[6][7]。2008年(平成20年)には、妙寿寺客殿(旧蓮池藩鍋島家住宅)が世田谷区指定有形文化財となっている。 』
妙寿寺 (世田谷区) - Wikipedia





 本覺山妙壽寺は、寛永八年(一六三一) 江戸谷中清水町に開基された法華宗本門流の寺院です。寛文二年(一六六二)には深川猿江村に移りました。後に、猿江村鎮守稲荷社別当となり、元禄四年(一六九一)にはこれを合併し、以降明治期・大正期を通じ隆盛しました。
 その後、大正十二年(一九二三)の関東大震災で諸堂宇が焼失し、当地へ移転することとなり、かつて東京市麻布区飯倉狸穴町(現、港区麻布台二丁目)の蓮池藩鍋島家邸宅にあった二階建ての和風住宅 (明治三七年築)を昭和二年(一九二七)に移築し庫裡としました。 平成七年(一九九五)には庫裡を別棟で新築し、以後これまでの庫裡は客殿として利用されております。
 移築の際、二階建ての和風住宅に式台のある平屋の棟を足したようで、それぞれ屋根の形状や使われている木材の材料が異なります。 二階建て部分は主に梅材を使った贅沢な普請で、内部は一階に座敷や台所を配し、二階には二十四の大広間と十二畳の次の間が配されています。 二階大広間は一間半幅の床の間と、天袋 違い棚の付く床脇、付書院が備えられ、天井は折上げ格天井、壁には蟻壁長押(ありかべなげし)をまわす書院で、この住宅の上座敷となっています。
 かつて鍋島家では天井の高い大広間に椅子とテーブルを置き、和室でありながら洋風の接客をしていました。 明治中期以降の華族や上流階級の生活様式を、建物を通しうかがい知ることができます。 客殿は移築当時の姿を良く残しており、意匠や技法にも優れ、 烏山寺町の初期形成期の歴史を知る上でも重要な建物です。 今日このような明治期の遺構は都内では少なくなり、建築史学上貴重な建築であることから、区指定有形文化財に指定されました。




妙壽寺の文化財

心学者 中沢道二翁の墓
 中沢道二は享保十年(一七二五) 京都の機織りを営む家に生まれました。
 四十一歳で家業を離れたのち、 手島堵庵の弟子となって「町人のための哲学」といわれた石門心学の修業に励みました。 安永八年(一七七九)、堵庵の命により関東に下り、四年後には江戸日本橋に心学講舎・参前舎を設けています。 ここを拠点に教化活動を行い、道二の心学は庶民をはじめ各層に広まりました。
 享和三年(一八〇三)六月十一日に没し、妙壽寺に葬られました。

太田近江大掾藤原正次作の梵鐘
 太田近江大掾藤原正次は、深川の上大島町に居住し、釜屋六右衛門(通称釜六)とも称しました。
 茶釜などの制作を生業として名をなしましたが、梵鐘も手がけ、区内における作例としては、豪徳寺の梵鐘が知られています。
 妙壽寺の梵鐘は、制作年代が享保四年(一七一九)十一月で、鐘の表面に「武州葛飾郡本所猿江稲荷別当本覚山妙壽寺」と刻まれています。 これは、寺がかつて本所猿江村に所在していた重要な記録となっています。




◆書院

参考
美珍麗・探訪 | 妙壽寺客殿 〔東京・千歳烏山〕




◆旧蓮池鍋島子爵邸





◆梵鐘



この梵鐘は享保4年江戸時代中期(1719)に鋳造されたものです。大正12年9月関東大震災の時、隣接のガス会社より流出したコールタール等により猛火につつまれ破損したので当時の被害の甚大であったことが想像できるのであります。
梵鐘には左記の如く銘刻されています。




◆お墓

自民党副総裁 川島正次郎の墓
『川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 』
川島正次郎 - Wikipedia

五代目立川談志(恒川駒吉)の墓
柳家太夫(やなぎや きんたゆう、安政5年(1858年)2月10日 - 昭和17年(1942年)3月23日)は、落語家。本名∶恒川 駒吉。 』
柳家金太夫 - Wikipedia


喜劇俳優 杉狂児の墓
『杉 狂児(すぎ きょうじ、1903年7月8日 - 1975年9月1日)は、日本の俳優、歌手。本名は杉 禎輔。旧芸名に杉 京二。
戦前から戦後にかけての映画界で活躍したコメディアンで、戦前はマキノ・プロダクション、河合映画、日活などに出演し、歌手として「うちの女房にゃ髭がある」など映画の主題歌も歌っている。戦後は脇役として東映時代劇等に出演した。宝映テレビプロダクション創立者でもある。妻は女優の金谷種子、長男の杉義一・次男の杉裕之・四男の杉幸彦は俳優である。 』
杉狂児 - Wikipedia


大原麗子の墓
『大原 麗子(おおはら れいこ、1946年〈昭和21年〉11月13日 - 2009年〈平成21年〉8月3日[2][3])は、日本の女優。本名:飯塚 麗子(いいづか れいこ)。身長157cm、B80cm、W56cm、H83cm(1975年5月)。 』
大原麗子 - Wikipedia


陸奥国弘前藩三代藩主 津軽信義の供養塔
津軽 信義(つがる のぶよし)は、江戸時代前期の大名。陸奥国弘前藩3代藩主。官位は従五位下・土佐守。』
津軽信義 - Wikipedia




◆山門




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