2022/09/17 大円寺




護摩





地蔵堂





灯籠



 この一対の灯籠は上野の寛永寺墓所があります、 八代将軍「徳川吉宗公」の墓前にあったものです。「有徳院殿」とあるのは吉宗公の戒名です。昭和三十九年に御寄付いただきました。





石橋供養塔/庚申塔



庚申塔
 庚申信仰は、六十日ごとの庚申の日の夜に眠っている人の体から三尸の虫が脱け出て、その人の罪を天帝に報告するという道教の思想からきたとされています。人々は、庚申の夜には儀式や宴会をしてすごしました。この庚申塔は市内で最も古い延宝八年(1680)の造立です。

左 石橋供養塔
 黒目川に架けた石橋の供養塔で、天保六年(1835)に造られたものです。観音立像が彫られており、もとは橋の傍らにあったものと思われます。 大正十三年(1924)に改修した記事もみられます。




馬頭観音塔/庚申塔



庚申塔
 庚申信仰は、六十日ごとの庚申の日の夜に眠っている人の体から三尸の虫が脱け出て、その人の罪を天帝に報告するという道教の思想からきたとされています。人々は、庚申の夜には儀式や宴会をしてすごしました。この庚申塔は延享三年(1746)の造立です。

馬頭観音
 馬の供養や無病息災、交通安全を願って天保九年(1838)に造られた馬頭観音塔です。もとは旧下里村の秩父道(所沢街道)沿いにあったものです。左側面に「東いたはし(板橋)五里、西 八王子)五里、南江戸四つ谷 五里、北川ご絵(川越)五里」と刻まれていることから、五里五里馬頭と呼ばれて親しまれています。





鐘楼





如意輪(にょいりん)観音菩薩



 私は天台宗六観音の一つで、宝珠(悪を去り濁水をすませ、災禍を去る王)と宝輪(輪宝を転して自由に衆生を救う)をもって、人々の願いをかなえる観音様です。 延寿・安産・除難を祈って功徳があるといわれております。また寄りも安置しております。 「元三大師」は私(如食輪観音)の生まれ変わりとも云われております。





矢部藤九朗之墓



 小山部落に古くから傳わって居りました院殿居士の殿様であった所の矢部さんのお墓が今般、東久留米文化財の皆様の努力により江戸四谷の全長寺にありましたが、離れ一人参拝者が無いと言うので小山部落にもどすと言う事でいただいて来ました。
大円寺過去帳一号二号(享保二年)によると矢部と言う事が記入してあるお墓です。





柱の原寸模型



 大圓寺新本堂の柱と斗組の原寸模型になります。新本堂の化粧部材は全て桧を使用しており、 100坪ある大本堂の大屋根を支える、 柱は丸柱や角柱があります。特に丸柱の数が多く、 直径1尺1寸 (33cm) の丸柱を36本使用しております。
 工事期間中はご不便やご迷惑をおかけいたしますが、安全第一で工事を進めてまいりますので、ご配慮宜しくお願いいたします。
株式会社金剛組





大円寺観音堂大円寺会館

工事中。



大圓寺本堂·客殿建設趣意書
 謹啓 檀信徒の皆様にはますますご壮健のこととお喜び申し上げます。また、平素より大圓寺護持のためにご丹精を賜りますこと、厚く御礼申し上げます。
 さて、当山大圓寺は、天台宗第三世座主である慈覚大師円仁(794~864)が東国に巡錫した際に開基となり、その命を受けた秀観僧都が天安二年(858)に寺主となったと伝わっております。また、江戸末期から明治初期に、下里本村の神宮寺と小山西の不動院の末寺、さらに神明山中丸の観音寺と前沢宿の延命寺を統合し、現在の大圓寺が形作られました。それ故、一一〇〇余年の歴史を持つ古刹と言えましょう。
 江戸中期に伽藍が火災に遭い、前本堂はその後に建立され築二五〇年余り経過していました。その後、昭和三十三年(1958)に瓦葺きへと改修が施され、昭和四十六年1971)に庫裏を建築して以来、特に大規模な修繕等は行われませんでした。ところが、平成二十三年(2011)に起こった東日本大震災によって、本堂の柱が二本折れていることが判明し、シロアリ等の損傷や老朽化も相俟って耐震に不安が残る結果となりました。
 当山有縁の壇信徒の皆様とそのご先祖様、歴代住職及び現世寺族にとっても前本堂は信仰の拠り所であり、永劫に活用すべき本堂でした。 しかし、前述の状況を勘案して、幾度に互る責任役員会での協議を経て、新本堂並びに客殿の新築が発願されました。 そして、建設委員会の下、壇信徒の皆様には本堂並びに客殿の建設にご理解頂き、過分なるご厚意を頂戴賜った結果、令和三年九月に魔事なく本堂の完成と相成りました。厳かで落ち着いた雰囲気の漂う当山の景観を活かしつつ、本山である比叡山延暦寺
根本中堂に代表される天台様式や絵天井を採り入れております。
 今後は、大玄関を備えた客殿の建設に着手いたします。 この建物は、ご法事の際にご利用頂ける客間と、前本堂の意匠に倣った広い玄関、さらに寺務所を設け、壇信徒様の利便性の向上を図ります。 また、客殿や本堂へ続く廊下から中庭をご覧頂けることによって、心の安まる寺院空間となる事でしょう。これら大事業の円満成就の暁には、令和の寺院建築史に残る文化財として、また東久留米の名所として誇れる建築になることと信じております。
 末筆ではございますが、今後とも大圓寺興隆のために、何卒ご協力、ご支援を賜りますようお願い申し上げます。
合掌





水子地蔵尊





山門



七福神
 江戸時代 天台宗天海大僧正徳川家康公に会ったおりに、家康公より乱世を治める方策を尋ねられ、江戸庶民の幸せの為にと七福神信仰を具申し実現したのが、福徳を備えているとして、長寿(寿老尊)・大量(布袋尊)愛嬌(弁財天)・威光(毘沙門天)・富財(大
黒天)・人望(福禄寿)・正直(恵比寿)の七つを示し、これを画いたのが七福神の起源だとも云われています。