2023/10/02 小川寺


『承応3年(1654年)頃の小平地域は、玉川上水が開削されるまで、茅芒の生い茂る無人の原野で、「逃げ水の里」とも呼ばれていた。武州多摩郡岸村(現・武蔵村山市)生まれの小川九郎兵衛は、水利に乏しく生活に過酷な不住の土地であった当地の開拓を志した。玉川上水の開拓に続き、野火止用水の開削を進め水の確保に努めた。明暦2年(1656年)、新田開発と馬継場の新設を願い出て、小川分水の開削を許可された。しかし、開拓は容易ではなかった。開拓の必要性を熱心に呼びかけても、地味で痩せた原野開拓を希望する人は少なかったため、小川九郎兵衛は自費を使って農民を住み着かせて開発を進めた。開拓に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが醫王山小川寺で、九郎兵衛本人も境内の墓地に眠っている。
村の名主であった小川九郎兵衛と、開拓に加わり村に移り住む人々による、小川村の開拓事業は順調に進んだ。その再建事業では、青梅や秩父の石灰や木材などの資材運搬で馬継場は繁盛、起業家でもあった小川九郎兵衛の開発計画は成功した。貞享(1684-1688年)の頃には開拓者たちの懐も潤っていき、檀家はこぞって梵鐘の寄進に応じた。 』
小川寺 - Wikipedia






 明暦2年(1656) 小川九郎兵衛が小川村の開発を始めたとき、江戸市ヶ谷河田(かわだ)町(現新宿区)の月桂寺(げっけいじ)住職、雪山碩林大禅師(せつざんせきりんだいぜんじ)を勧請し、開山として建立した寺院が、醫王山(いおうざん)小川寺です。
 墓地や境内には小川九郎兵衛墓、 小川寺梵鐘があり、いずれも市の指定文化財となっているほか、 馬頭観世音、 出羽三山供養塔などの石造物も見られます。
宗派 臨済宗(りんざいしゅう) 円覚寺派(えんかくじは)
本尊 藥師瑠璃光如来(やくしるり こうにょらい)





◆鐘楼




 貞享(じょうきょう)3年(1686) に鋳造され、 小川寺檀家57戸により寄進された梵鐘です。 この年は、開基小川九郎兵衛安次義重(おがわ くろべえやすつぐ)の没後18年にあたり、 小川家当主は二代目市郎兵衛義重(いちろべえよししげ)でした。
 この頃の青梅街道は、江戸城の修復、明暦の大火の復興に要する石灰などの資材運搬でにぎわっており、 檀家の農民は馬継場(うまつぎば)の荷役稼働による収入を得て、 梵鐘の寄進に応えたものと思われます。
 なお、梵鐘の表面には、寺の起因と本尊薬師如来の仏恩、寄進者57名の氏名が刻まれています。





◆小川九郎兵衛墓


Ogawa Kurobe Grave
 小川九郎兵衛安次は、元和8年 (1622)に多摩郡岸村 (現武蔵村山市) に生まれました。 祖先は後北条氏の家臣で、 天正18年 (1590) の後北条氏滅亡後、 村山郷(むらやまごう)に土着した、 いわゆる郷士(ごうし)の家柄でした。
 九郎兵衛は、小川村の開拓と馬継場(うまつぎば)の基礎を確立した寛文9年(1669)、 婿養子の市郎兵衛(いちろべえ)に家督を譲って岸村に帰り、 その年に病を得て12月17日に48歳でその生涯を閉じました。
 九郎兵衛は岸村の禅昌寺(ぜんしょうじ)に葬られましたが、後に孫の弥一によって分骨され、 小川名主家の菩提寺であるここ醫王山小川寺にこの墓が作られました。





◆白い彼岸花





六地蔵





六地蔵





◆石塔

まわりには庚申塔などがみられる。





◆石塔





◆石塔





◆石仏


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◆南無地蔵菩薩





◆池





◆忠霊塔





◆民安稲荷大明神





◆門





◆小川寺 山門(仁王門・楼門)





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