その昔、この辺り一帯は 「逃水(にげみず)の里」と呼ばれ、水の便に乏しい原野でした。
その一角に一本の榎の大樹がそびえており、諸国から鎌倉方面へ上る人々や、近隣の村人達は、この大樹を 「一本榎」と呼んで、原野を往来する際の良き目印にしていたと伝えられています。
小川村の新田開発も進み、 村の形態が整ってきた宝永元年(1704) に、 小川新田の開拓を行うのに先立ち、武蔵国多摩郡殿谷(とのがや)村(現西多摩郡瑞穂町) の阿豆佐味(あずさみ)天神社の神主宮崎主馬(しゅめ)が、摂社として同郡岸村 (きしむら)(現武蔵村山市岸) に奉斎されていた熊野社を開拓の守護鎮守の社として遷祀したものです。
祭神 伊邪那岐大神 伊邪那美大神
武蔵野乃一本模 熊野宮
由緒
当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延喜式内社・阿豆佐味天神社の摂社として、同郡岸村字岸組に産土神と奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、 阿豆佐味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間に小川村名主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町 学園西町と上水本町の一部と上水新町) の開拓を行うのに先立って、その守護神として宮崎主馬が宝永元年(一七〇四)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。
以来この地域の鎮守の社として崇敬を集め、平成十六年 (2004)に御鎮座三百年を迎えた。
往時この一帯は「逃水の里」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われている。
その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じているが、特に青梅街道の田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられている。
宝永年間の「一本榎」は、既に樹齢数百年を経た老大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は百数十間にも及び、盛夏の炎天下にあっても絶えず千古の涼風が吹き通っていたとも伝えられている。
この初代の榎は、寛保年間(1742~44)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、末社殿に合祀されている。
二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繁っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。
また、社殿正面には、樹齢約二百五十年から三百年の二本の棒が寄り添って繁っており、「夫婦棒」 と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれている。
◆境内社
◆山門?
神社の中に山門がある理由をWEBで調べてみた。
参考
神社によっては鳥居以外に山門があるのは一体何故でしょうか。 - 可能性としては... - Yahoo!知恵袋
山門(神社なのに山門があるのは、かつての神仏集合時代の名残?と推察出来る) - Photo de Sasayama Kasuga Shrine, Tanba Sasayama - Tripadvisor
御神水
我国には、古来より水を神聖なるものとする信仰があります。
疫病や災害が、水によってもたらされることで水への恐怖心が生まれ、また水のもつ清純性が汚穢を祓い清めると考えられています。
水の神様である水波能売神〔水神様]は、身体健全・子孫繁栄を司る神と言われております。
この御神水は、境内に井戸を掘り地下約八十メートルから汲み上げております。
御家庭の神様のお供えにお使い下さい。
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