2023/04/19 幸龍寺


幸龍寺(こうりゅうじ)は、東京都世田谷区北烏山五丁目にある寺院。日蓮宗に属し、旧本山は大本山本圀寺(六条門流)である[1]。創建は天正年間(1573年-1593年)で当初は浜松にあった。後に駿府に移った後、1591年(天正19年)に江戸湯島に移築されて徳川家の尊崇が厚かったと伝わる。関東大震災罹災後の1927年(昭和2年)に烏山への移転を開始し、1940年(昭和15年)に移転を終え、烏山寺町を構成する26寺院の1つとなった。墓域には『江戸名所図会』の挿絵を担当したことで知られる長谷川雪旦とその子、雪堤などの墓がある。 』
幸龍寺 (世田谷区) - Wikipedia





 幸龍寺の創建は、天正七年(一五七九) 徳川家康浜松城主の時、正心院殿日幸 (秀忠の乳母の願いにより、玄龍院日俸を招いて城下の半頭町に伽藍を整え、祈願所として開山されたことにはじまると伝えられます。
 のちに家康が駿府へ移ると寺も移転、更に天正十八年(一五九〇) 家康の関東入国の翌年、神田湯島三丁目に移りました。
 二代将軍秀忠は、正室崇源院殿懐妊に際し安産を祈願、無事に世嗣・家光が誕生すると、鬼子母神像などを寺に奉納しました。つづく家光は、浅草に約八千坪の土地を寄進し、寺は神田湯島から移転しました。
 五代将軍綱吉は、さらに二千五百坪の境内地を寄進し、三代将軍家光の側室・順正院殿(六代家宣祖母)の廟所を設け、幸龍寺は徳川家の香華院の列に加わり、日蓮門下江戸五山の一つに数えられるほど隆盛しました。
 大正十二年(一九二三)の関東大震災で多くの堂宇が罹災したため、昭和二年(一九二七)より現在地に移転を開始し、今に至っています。
 墓域には、順正院殿墓、旧唐津藩主小笠原家累代墓所、『江戸名所図会』の挿絵師・長谷川雪旦、雪堤父子の墓、江戸後期の随筆『嬉遊笑覧』の著者・喜多村筠庭などの墓があります。




◆鐘楼




◆清正公堂




浄行菩薩




◆お墓

唐津藩主小笠原家累代墓所
唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城佐賀県唐津市)。 』
唐津藩 - Wikipedia



長谷川雪旦・雪提父子の墓
『長谷川 雪堤(はせがわ せってい、文化10年1月〈1813年の2月頃[注 1]〉- 明治15年〈1882年〉3月15日)は、江戸時代後期後半[注 2]から明治時代初期にかけての日本の絵師。氏姓は後藤を名乗る[1]が、本姓は金沢である可能性が高い。画姓は父に倣って長谷川を名乗る。名は宗一。画号は、雪堤のほか、雪江(せっこう)・梅紅・松斎(しょうさい)・巌松斎・雪汀がある[1][4]。長谷川雪旦の長男[1]。弟子に長谷川雪塘などがいる。 』
長谷川雪堤 - Wikipedia



漫才師 内海好江の墓
『内海 好江(うつみ よしえ 、本名・奥田 好江、1936年〈昭和11年〉2月23日 - 1997年〈平成9年〉10月6日)は、東京市浅草区(現・東京都台東区)出身の元漫才師である。マセキ芸能社に所属し、内海桂子・好江の名で内海桂子と女性漫才コンビとして活動していた。 』
内海好江 - Wikipedia




◆山門




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