2023/04/19 多聞院


『多聞院(たもんいん)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。真言宗豊山派に属し、本山は長谷寺、正式名を「金剛山 悲願寺 多聞院」という。創建は1615年(元和元年)で、旧地は甲州街道沿いの角筈(現在の新宿区西新宿1丁目付近)であった。
1945年(昭和20年)5月の大空襲で全ての堂宇を焼失し、第二次世界大戦終戦後に区画整理事業の対象となって烏山に移転してきた。多聞院は「烏山寺町」を構成する26の寺院の中では、最後に烏山に移転してきた寺院である。 』
多聞院 (世田谷区) - Wikipedia





山号  
金剛山 悲願寺
本尊  
地藏菩薩
開山  
述誉法印  寛永五年(1628年)
開基  
渡辺小兵衛 明暦四年(1658)
宗派  
真言宗豊山派
総本山 
豊山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師  
宗祖  弘法大師
中興祖 興教大師
教祖  専誉僧正
開宗  
真言の教えはその源流を遠くインドに発し中国に伝わりました。平安時代の唐に渡り、真言の教えを持ち帰り、わが国に真言宗を回収しました。
教え
遍(あまね)く広く全てのものの存在を肯定する曼荼羅思想やすべての人に宿る仏教の光明をみつめる即身成仏思想をもとに、世のため人のためにお報いしようという「四音酬答(しおんしゅうとう)」の教えが基本です。
霊場
御府内八十八ヶ所霊場第三番
お経
般若心経・観音経など。また、仏教音楽といわれる声明(節のついたお経)もお唱えします。





◆天竺渡来石彫涅槃図



天竺渡来石彫涅槃図由来
 この石造浮彫涅槃図は、奈良・壺阪寺より寄贈されました。壺阪寺は浄瑠璃「壺阪霊験記」のお里 沢市の物語で名高く、昔から盲人の故里として広く信仰されているところです。
 多聞院先々代中興教荘和尚は壺阪寺住職として在職中、世界に先駆けて養護盲老人ホーム 慈母園” を昭和36年に開設し社会福祉の実践を教えられました。
 昭和58年、長年に亙る救ライ活動に対する感謝の意を込めてインド政府より、高さ20メートル、重さ1.200トンの大観音石像が延べ8万人のインドの人達の協力の下に製作され、壺阪寺へ贈られ、同寺の「匂いの花園」から見上げる台地に建立されました。
 この日印協力の事業の輪が、大仏伝レリーフ(浮彫)へと発展して行ったのであります。 大仏伝図(高さ3メートル 延長50メートル)は昭和61年秋壺阪寺に建立されます。この仏伝図(涅槃図)は、教荘和尚、博一橋尚への報恩のために遺弟(壺阪寺住職常盤勝憲和尚) がインド政府に特に依頼し製作したものです。
 涅槃とは、サンスクリット語(梵語) のニルヴァーナを音訳して出来た言葉で、智慧が完成するさとりの境地のことです。
涅槃像は、お釈迦さまが入滅なされたお姿をあらわしたものです。
 この石彫涅槃図は、インドのテカン高原に産出されるシーラーの名石を使いインドの文化勲章受賞者マイソール大学名誉教授ジェノイ博士が中心となり、南インドの彫刻師達によって製作されたものです。
 従来イントは、仏ば不表現"が慣習で、仏足跡あるいは、ストゥーパ(塔) によって、仏を象徴してきましたが、ギリシャ彫刻等の影響をうけガンダーラで仏像の製作が始まり、特に仏伝図は、インドの石造芸術の中に多くみられます。





◆仏足石



 仏足石(跡)は、お釈迦さまの足の裏の相です。その昔、お釈迦さまが人々の前で説法をされた時、多くの人々に自分の姿が見えるように、岩や石の上に立ってお話しをされました。
 説法が終わり、お釈迦さまがお帰りになった後も石の上に足の相が残っており、人々はその足跡をそのまま石に刻み、有難く拝んできました。
 その後数百年を経てはじめてお釈迦さまの像がつくられるようになったと言われています。私達が日々礼拝する仏さまの「基」が仏足石です。その文様の一つひとつに、お釈迦さまの慈悲の心と、尊い教えがこめられています。






◆藤棚





◆お墓

お墓が二基登録されていた。


館林藩士 大久保鼎の墓
館林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。1845年、井上正春が転封となり、秋元志朝が6万石で入封、それ以後1871年の廃藩まで秋元家が藩主として続いた。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。 』
館林藩 - Wikipedia

大久保鼎(かなえ)
大久保鼎(おおくぼ かなえ)とは? 意味や使い方 - コトバンク


漢詩人 本田種竹の墓
本田種竹(ほんだしゅちく)とは? 意味や使い方 - コトバンク





◆山門





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