2021/02/18 大山散歩 05 板橋宿不動通り/観明寺/広場/仲宿商店街/中山道高架/板橋区役所前駅/板橋区役所

中山道を今度は北上。
仲宿商店街の中には入らず左折し、板橋区役所を目指す。



◆板橋宿不動通り

商店街♪





街灯上のオブジェ

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街灯にいくつかオブジェがあった。








◆観明寺



 当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝五年(1677)十月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
 明治六年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来します。
 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
 また参道入口にある庚申塔は、貫文元年(1661)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。


庚申塔


稲荷神社


六地蔵菩薩

 お地藏さまは六道(地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人間道、天上道)すべての世界で苦しむ者に仏の教えを説いてくださります
 当寺のお地蔵さまは 右足を一步踏み出し わたしたちのもとへ 急いで向かうお姿をしております


石仏など


山門


参道入口


板橋宿今昔みちしるべ(参道入口脇に立っていた)

板橋宿
日本擒から北へ、中山道第一番目の宿場。東海道品川宿日光街道千住宿甲州街道内藤新宿とならび、江戸四宿に挙げられている。
中山道を京方面から下ってきた人や荷物はここから江戸市中に、また、ここから中山道へ旅立っていった。
宿場は南から平尾宿、中宿、上宿て構成され、本陣が一軒、脇本陣が三軒、五十四軒の旅籠屋があった。

加賀藩下屋敷
板檎宿 の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、 南東部一蒂二十二万坪 (约72.6ha) におよぶ加賀藩下屋敷が広がっていた。この下屋数が板檎宿に移ってきたのは、天和三年(1683年)とされる。
明治維新により、江戸内の藩邸や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋教も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治九年 (1876年)のことである。
これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下靖け工場が付近に集積する契機となった。

如意山観明寺
真言宗武豊山派で、室町時代の創建。本尊は正観世音菩後。入口に寛文元年(1661年)に建立された庚申塔がある。
境肉の豊川出世稲荷と赤門は、かって加賀藩下屋教にあったもの。明治時代には、宿場の賑わいを回復しようと成田山のお不動様を勧請し、縁日を開いて繁栄した。

近藤勇と豊田家
斬撰組隊長であった近藤勇は、慶応四年(1868年) 、板橋形状で処刑された。近藤の墓そのものは、現在のJR板橋駅前にあるが、処加される直前まで平尾宿の脇本陣豊田家に軟禁されていた。
豊田家 は、代々平尾宿 の名主として、江戸時代中期より脇本陣を務めた。脇本陣の建物自体は現存していないが、明治末期まで江戸時代の風情をとどめていた。現在、脇本陣の跡には碑が立っている。








◆広場

特に名前はなかった。


中にあった観光マップ








仲宿商店街

2021/02/18 大山散歩 03 板橋/石神井川緑道/仲宿商店街/高野長英ゆかりの地/板橋仲宿脇本陣跡/仲宿ふれあい広場 - ovanの社会科見学
この時の商店街、反対側になる。








中山道高架

奥に板橋本町駅が写っている。









板橋区役所前駅

都営三田線板橋本町駅








板橋区役所



バーリントン友好時計



板橋区バーリントン市姉妹都市提携10周年記念
寄贈・バーリントン市


平和祈念像



この度、板橋区役投所の依頼で、長崎平和像 の「立像試作」を30年ぶり に再び手がけることになった。
思えば長崎の平和像は、この立像就作を経て座像へと移行し、「頭部試作」を加えることによって、原爆記念から平和祈念へと進展したのであった。
いま、その原点の「立像雛型」に帰り「頭部試作」と合流して一つの新作に昇華し得たのは作者としても大きな喜びてある。
依頼された板橋区民の方々にお礼を申し上げる次第である。
昭和62 年(1987 年)2月
北村西望

北村西望氏略愿
     (满年齡)
明治17年12月 (0) 長崎県南高未郡南有馬村にて出生
明治40年3月 (23) 京都市立美術工芸学校卒業
明治45年3月 (28) 東京美術学校(現東京芸術大学)卒業
大正 4年  (31) 文部省第9回美術展覧会首席二等賞
大正10年5月 (37) 東京美術学校塑造部教授
昭和10年6月 (61) 帝国美術院会員
昭和33年3月 (74) 社団法人 日展常務理事
昭和33年11月(74) 文化數章。文化功劳者
昭和37年6月 (78) 日本彫塑会名誉会長
昭和40年6月 (81) 日本芸術院第一部長
昭和44年3月 (85) 社国法人日展会長
昭和45年7月 (86) 社団法人日本彫刻会名誉会長
昭和49年  (90) 社団法人日展名誉会長
昭和55年10月(96) 東京都名誉都民
昭和62年3月4日 满 102歲にて永眠


板橋区の木「欅(ケヤキ)」



鳩にえさやる少女 像
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作 斉藤 吉郎

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斉藤吉郎 :: 東文研アーカイブデータベース






続く。