2019/03/19 本所吾妻橋散歩 07 佐多稲子旧居跡/隅田公園/牛嶋神社/二峯先生之碑/堀辰雄ゆかりの地/平成植栽の碑/藤田東湖「天地正大気」の漢詩碑

隅田公園に入る。
たくさんの史跡がある公園だった。
一部工事中で見られない場所もあったのでまた行こうと思う。




佐多稲子旧居跡

すみだ郷土文化資料館の敷地内にあった。





 小学校の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町 52番地 ( 現在、隅田公園内 ) の家に身を寄せることになる。牛島尋常小学校5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は 5年で中退してしまった。その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。これらの経験が、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、出世作となった。
 戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは基角の家だ、と子供心にも知っていた。」





隅田公園

こちらは川を挟んで墨田区側。
牛嶋神社水戸徳川家下屋敷跡がある。













釣り堀まであった。




牛嶋神社






 貞観2(860)年に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命(すさのおのみこと)を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜灯の東側にあった。昭和7(1932)年に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。
 本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落していった牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭(うてい))焉馬(えんば)(1743~1822)の「いそかすは 濡まし物と夕立のあとよりはるゝ堪忍の虹」の句碑などがある。
 5年に一度の例大祭は、牛が引く風輦を中心に古式ゆかしい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合渡御となる。




撫牛

 撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
 この牛の像は、文政八年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。
 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は『幼年時代』で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。





小梅稲荷神社







楽殿




鳥居





◆二峯先生之碑((隅田公園内)




 二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した書家の高林二峯のことです。二峯の生涯を称える内容が刻まれたこの碑は明治三十年(1897)八月十六日に二峯が没した翌年の三月、円通寺(押上二)に建碑され、のちに現在地に移設されました。
 二峯は、文政二年(1819)九月三日に上野国後閑村(群馬県安中市)に生まれました。生誕地より望める妙義・榛名の二山にちなみ二峯と号しました。幼少より書の才を現わし、天保十四年(1843)には幕末の三筆と呼ばれた巻菱湖に師事しようと江戸に出ました。 しかし、菱湖はすでに亡くなっていたので、二峯は中国の古筆の研究を進めやがて独自の書法を確立するに至ります。二峯の書は向島百花園の「しのぶつか」、「きゃうけん塚」などの碑でも見ることができます。
 碑文を担当したのは長男の寛です。五峯と号し、父の書風を受け継ぎ、さらに中国の書に近世の諸流を学び、独特の書風を打ち立てました。篆額「二峯先生之碑」は勝海舟(勝安房)が受け持ちました。
 建碑の中心となったのは、今泉雄作です。東京美術学校(現在の東京藝術大学創立者の一人で、二峯の弟子として文峯の号を名乗りました。庶務を担当した佐羽喜六は11才で二峯に入門した後、桐生の豪商に婿入りして佐羽氏を継ぎ、桐生の近代織物業の発展に力を注ぎました。裏面に刻まれる建碑寄付者の中には、二峯の出身地とゆかりのある前橋市長竹内勝蔵や貴族院議員江原芳平などの名も見られます。






堀辰雄ゆかりの地

 堀辰雄は明治三十七年 (1904)、麹町平河町 (現在の千代田区平河町) に生まれました。2歳とき、母に連れられ向島小梅町 (現在の向島3丁目) に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師・上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町 32番地 (現在のすみだ福祉保健センター所在地) で暮らしはじめます。
 更にその二年後には大水の影響で新小梅町2の4に移り、ここから牛嶋尋常小学校に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室生犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正 十三年 (1924) 四月に父・松吉が隅田公園の新小梅町8番地 (現在の向島1丁目7番) に住居を新築し、辰雄が結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年 (1938) まで父と共にそこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さい玄関ー辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎(よだれ)かけをかけた石の牛が一ぴき臥(ね)てゐた。私はそのどこかメランコリックな目(まな)ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは、牛島神社境内の撫牛のことです。
 昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする作品を残し、昭和二十八年(1953)に没しました。






公園内の碑にあった写真の③の場所。
こちらには何も見当たらなかった。






◆平成植栽の碑





 墨堤に桜を植え、花見の名所にしたのは八代将軍の吉宗でした。吉宗は桜・桃・柳などを植えて、人々の憩える場所にしました。以来人々は、墨堤の桜を大切に育ててきました。
 東都有数の景勝地として人々に知られた墨堤の桜は、これまで幾度も洪水などの危機に見舞われましたが、そのたびに地元の人々が寄付を募り、その寄付で桜を植え直し今日に至っています。
 高速道路の建設工事に伴い植え替えられた現在の桜は、樹齢も四十年余りの年月を数え、一部の桜は樹勢が衰えてきました。そこで、これまでの歴史的な背景もふまえ、このたびの「墨堤の桜の保全・創出事業」において、桜を愛する人々の寄付によって生育環境の改善を図るとともに、隅田公園内に新たに桜を植栽し、墨田区登録名勝ともなっている墨堤の桜を次の世代に守り伝えていくことになりました。
 新たな桜植栽にご協力をいただいたのは、先の方々をはじめとする多くの善意あるみなさんです。





藤田東湖「天地正大気」の漢詩





 江戸末期の尊皇攘夷論者として知られた水戸藩士藤田彪(号は東湖)の「和文天祥正気歌」の刻まれた漢詩碑です。
 弘化二年(1845)11月、藤田東湖はこの地にあった小梅の水戸徳川家下屋敷に幽閉されているときに次の詩を作りました。
 「天地正大の気、悴然として神州に鐘まる。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ・・・(下略)」と、五言七十四句のナカに天地自然の美しさと日本古来の国体を賛美した内容で、通称「正気の歌」の名で有名です。
 中国宋時代の忠臣文天祥も敵に捕まり、故国を賛美した「正気之歌」を作詩したことから、同じ境遇の東湖は同名の漢詩を作りました。
 東湖は、文化三年(1806)水戸に生まれ、彰考館編修として攘夷論を水戸学としてまとめあげました。また、徳川斉昭の腹心として藩政改革に活躍したことでも知られています。安政2年(1855)の大地震のときに、50歳で不運な死を遂げましたが、この漢詩は水戸の尊皇攘夷派のバイブルとなり、さらには幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新の原動力になったといわれています。
 この碑は、昭和19年(1944)6月に東湖会が建立しました。





続く。