2022/02/07 本所吾妻橋散歩 05 飛木稲荷神社/圓通寺/高木神社/東武伊勢崎線高架/曳舟駅/曳舟なごみ公園/ひきふねどんぐり公園

東武曳舟駅、京成線京成曳舟駅周辺を散策。




◆飛木稲荷神社



 一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で農工・殖産・生活の加護にお働きのある神様であります。
〇神木いちょう
 樹令千年をこえると言われ、戦火(昭和二十年三月九日)により、損傷を受けましたが、ご覧のように元気に繁茂しております。
 古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛んで来て、この地に刺さったとのことです。そしていつの間にか亭亭とそびえたので時の人が、これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祝りしたのが始めであると言われております。飛木稲荷の名もこれから起ったものです。
 お祀りした時代については、当地は再三の水害·火災等により旧家や円通寺等では古い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕社寺奉行書によれば応仁二年(西暦1468年)とありますがおそらくそれ以前であると思われます。
〇お稲荷さんときつね
 稲荷神社には石ぎつねがあり、またせともののきつねがたくさんあるので、きつねがお稲荷さんと思われがちです。そのことは、稲荷神社が最初に礼られた京都伏見稲荷神社境内のお山にきつねがたくさん住んでいたことから、きつねは、お稲荷さんのお使いであるという信仰が生まれました。この信仰から神社の前に置かれるようになったものです。


飛び木稲荷神社のいちょう

 神社の名前に由来する御神木で、目通り約4.8メートルもあり、樹齢も五、六百年はくだらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も15メートルと低いが、近年いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。
 江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西の海岸線の一部となっており、平安・鎌倉時代あたりから、後の本所・向島の境ともなる古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。
江戸時代この辺りは寺島新田と呼ばれ、順次開拓されていく様子もうかがえます。
 このいちょうの大木は、その自然堤防に育った歴史の証しといえます。


身代り飛木の焼けイチョウ

 昭和二十年(1945年)三月十日の束京大空襲でご神木(神霊が宿っているとされる木)は、我が身を焦がし、懸命に炎をくい止め、町の延焼を防ぎました。
 そして幸いにも多くの人達が助かりました。
 ご神木は、戦災という大きな悲刺を乗り越え、数年を経て緑の芽を吹き出しました。
 このようにたくましく生き延びた縁起のイチョウです。
 今の世にあって、私達に生きる勇気と希望を与えてくれています。
 きっと焼けィチョウは、大変な戦争かあったという事を、これから先も伝えてくれることでしょう。


奥社稲荷社


境内社



日枝神社


楽殿


力石


鳥居










◆圓通寺


南葛八十八ヶ所霊場


地蔵菩薩立像



 錫杖の一部に欠損あるのは惜しまれますが、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏です。尊像の顔貌は童顔に満ちていて、江戸初期の佳作にふさわしいもおです。
 舟形光背は細身で、尊像の丈に比べて不似合いなほど大きくし、上端に反りを持たせた江戸期特有の形態を示しています。
 銘を
  「干時明暦二年丙甲(1656) 奉造立地蔵大菩薩為寒念佛供養也 殊者当村血縁衆為菩提也 二月吉日」
 としています。
 この地蔵菩薩は寺島村新田(旧称)の、地蔵講中による「寒念仏」を修したことを記念していると同時に、結縁衆の「菩提」を弔うために造立・奉納されたものでもあります。
 かつての、村落共同体による地蔵講・観音講・庚申講などが、ほとんど姿を消してしまったことは惜しまれます。


地蔵尊


観世音菩薩


参道入り口

左側が飛木稲荷神社。


山門










◆高木神社



 応仁2年(1468)の創祀と伝えられており、旧寺島新田の鎮守として尊崇されてきました。御祭神は高皇産霊神(高木神)と申し、古事記日本書紀によれば、天孫降臨の際の国護り伝承や仲武東征などに度々登場し、天照大御神に助言するなど政治的な手腕を振るってきました。
 以上の神話かつ「万物生成」「人間関係を調整する」「交渉事を成就させる」などの尊い御神徳があると信じられて今日に至っています。


山玉向島講社の碑



 山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講(富士山を信仰する人々の団体)の一つです。講印から、江戸時代後期に成立した山玉深川元講から分かれた講と考えられます。講の参会には講印を配した祭紀具が用いられ、富士山登拝の際には富士吉田の御師「大番城」の屋敷に宿泊していました。沿革は不明ですが、明治七年(一八七四)と記された祭把具が伝えられており、大正期には講員が一〇0名以上であったと推定され
ています。本碑は、その山玉向島講社の人々が明治三十一年(1898)九月に建立したものです。
 本碑には、正面に山玉向島講社の講印が彫刻され、その中に「廿三夜」と刻まれています。これは、山玉向島講社の人々が参会する日を示すと考えられます。また、裏面には建立にかかわった世話人十六名の名が居住地別に刻まれ、建立当時の講社に先達、講元などの役割があり、当時の中心メンバーが須崎、中之郷、寺島の住人で構成されていたことを示しています。十六名のうち、碑銘彫刻師として知られる三代目宮亀年(元宮為吉)が名を連ねており、碑刻者と推定されます。
 世話人の経歴を調べてみると、須崎の人々は墨堤常夜燈(墨田区登録有形文化財)の奉納、寺島の人々は寺島小学校の創立というように、地域をあげての事業に関わる有力者層でした。碑に刻まれた須崎、中之郷、寺島の三区域の範囲は、向島地域にあって大きい部分を占め、山
向島講社がそれまでの社会生活上のつながりを超えた広がりをもっていたことが分かります。
 山玉向島講社は第二次大戦中に活動を停止したと考えられ、その具体的な活動を知ることは難しくなっています。この向島山玉講社の碑
は、近代の墨田区における信仰と地域の結びつきの広がりを理解するために欠くことの できない文化財といえます。


絵馬

おむすびなんだね!


石塔

こちらにもおむすび。


高木さん

アニメになっている!?
しかも放送日が過ぎているね・・・。


鳥居









東武伊勢崎線高架

こちらをくぐって線路の反対側(東側)へ。



すぐ脇にあった案内板

歴史と未来をつなぐまちづくり
曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業

●「向島」の歴史と「曳舟」の語源
向島は、隅田川を境にして西側から島状の洲が陸地化し、生活の場となった地域です。 平安時代から農業が営まれていた寺島を拠点として、 東へ請島(浮島)、 須崎 (洲崎)といった地名が続く、 湿潤な土地が広がっていました。江戸期のこの地域は、農家が散在し、周辺は肥沃な低湿地で覆われており、また、曳舟川を中心にして、 安藤広重などの絵師が好んで絵筆をとった風光明娼な土地でした。

曳舟川は万治2(1659)年に人々に飲料水を供給する上水として開削され、享保7(1722)年に上水としての機能を終えた後は葛西地域の藩澱用水や
舟運に利用されました。 「曳舟」 の語源は、 小舟の触先に立てた棒に綱をつけて、岸から人力でその綱を引いて川を遡ったことによるものです。

●明治~昭和初期の当地区
曳舟川沿いに発展した当地区は、 明治期以降、急速に都市化しました。 見渡す限りの田園地帯は東京近郊に進出を希望した大規模工場の絶好の立地場所となり、多くの工場が物資の運搬や用水の確保などに都合のよい曳舟川の沿岸に、競って立地を進めました。
永柳工業敷地側から亀戸方面を望む、左は京成電鉄

●進化する街
曳舟駅周辺地区は墨田区都市計画マスタープラン(平成20年3月)において区北部地域の「広域拠点」 と位置づけられており、交通の利便性を活かした都市機能の集積が期待されています。そのリーディングプロジェクトとして当地区において曳舟駅前地区第一種市街地再開発事業(施行者 独立行政法人都市再生機構)が施行され、現在に至っています。









曳舟駅

東武曳舟駅




近くにあった地図









曳舟なごみ公園









◆ひきふねどんぐり公園

google mapには「曳舟湯跡」とあった。
コチラに情報が残っていた。
曳舟湯(閉館しました) - 墨田区|ニフティ温泉









続く。