2018/06/26 小石川散歩 04 牛坂/諏訪神社/旧江戸川町/隆慶橋/新諏訪町/飯田橋駅

もうすぐゴールの飯田橋駅
北口にある大きな歩道橋の写真撮り忘れたなあ。




◆牛坂

前の日記、「牛天神北野神社」すぐ脇の坂道。




 北野神社(牛天神)の北側の坂で,古くは潮見坂(しおみざか)・蠣殻坂(かきがらざか)・鮫干坂(さめほしざか)など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は,今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。
 牛坂とは,牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり,それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
 『江戸志』に,源頼朝の東国経営のとき,小石川の入江に舟をとめ,老松につないでなぎを待つ。その間,夢に管神(菅原道真)が,牛に乗り衣冠を正して現われ,ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなり と記されている。





諏訪神社





舞殿




思の森稲荷大明神





旧諏訪町

 元禄9年(1696)、御本丸小間遣(こまづかい)十人が町屋敷を拝領し、その後変遷があった。町内に諏訪明神があったので、古くから諏訪町と呼ばれた[『御府内備孝』より]
 明治5年(1872)、隣地の牛天神下広小路、袋町新道と呼ばれていた武家地を合併した。[『東京府志料』]



鳥居




◆旧江戸川町



 江戸時代は武家地で、江戸川端、大曲り新道といっていたのを、明治5年(1872)、これらを併せて小石川江戸川町とした。[『東京府誌より』]
 町名は、町の南西側が江戸川に面していることによる。
 目白台下の旧関口の大洗堰(現、大滝橋あたり)から船河原橋までを江戸川といっていたが、昭和40年(1965)、新河川法が施行されたて、神田川と呼ぶようになった。
 白鳥橋の近く、旧江戸川町十七番地(現、水道1−2のあたり)に、明治6年(1873)、同人社が創設された。幕末は中村敬宇(けいう)(正直)で「江戸川聖人」といわれた。




◆隆慶橋








車一台がやっと通れるか通れないかの狭い橋だった。




◆新諏訪町



 江戸時代には、隆慶橋東側、雁木横丁といって。いた明治の初め、小日向三軒町(さんけんちょう)代地、小日向東三軒町と称していた地を合併して、新諏訪町とした。
 町名は、北側に隣接する諏訪町に対して、新の一字を加えて、新諏訪町とした。
 江戸時代、江戸川(神田川)は御留川(おとめがわ)で禁漁であった。江戸川が外堀に注ぐすぐ手前の橋が船河原橋(ふながわらばし)で、ここから下流は禁漁でなかった。
 新諏訪町に接する舟河原橋の下手がせき止めてあり、水がドンドと音を立てて流れ落ちた。それでこの橋はドンド橋といわれた。
 橋の滝の下は、下ってくる魚を捕らえるために網を張り、釣糸をたれる人が多かった。




飯田橋駅

ゴールの飯田橋駅
北側にある大きな歩道橋から撮影。
ほんのちょっぴりしか歩いてないのにものすごい情報量。
いつも思うのだが、歩いている時間より、日記を書いている時間の方が長い気がする(w

2018/06/26 小石川散歩 01 茗荷谷/竹早公園/竹早小学校跡/高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡/環三通り桜並木の由来/播磨坂桜並木

24時間勤務アケで、丸の内線「茗荷谷」から中央・総武線飯田橋」まで散策。
散歩するには暑い季節になってきたね。



◆丸の内線茗荷谷駅

今年の春に桜を見に一度来た場所。
ここからスタートです。






◆竹早公園



立葵かな?



◆竹早小学校(竹早国民学校)跡

上記、竹早公園内にあった。


 1928年(昭和3年)4月1日、竹早小学校がこの地で開校した。旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名、12学級をもってスタートした。現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建であった。校名は、所在地の竹早町からとった。
 校訓”剛健、協同、勤勉”のもとに、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も、保護者も努力を傾けた。
 残念なことに、昭和20年(1945)5月25日の空襲により校舎が焼失し、1946年(昭和21)3月、在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。

校歌(一部) 理想も高く伸び出づる 
           竹の剛さを健げさを  
                 永劫(とわ)に矜(ほこ)りの竹早校




高橋泥舟山岡鉄舟旧居跡



 下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
 泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母型の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦い幕府軍が破れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は
勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟の維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。




◆環三通り桜並木の由来




 かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年(1947)、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年(1953)には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年(1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年(1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。





みーつけたっ!





播磨坂桜並木



2018/03/27
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180327/1522779754

この時は桜が綺麗だったなあ♪





続く。

2018/06/26 小石川散歩 02 藤坂/藤寺/十一面観世音菩薩/庚申坂/小石川高等小学校跡/徳川慶喜終焉の地

ほぼ丸の内線に沿って南下する。
坂が多くて歩くのが辛い(汗



◆藤坂(富士坂・禿(かむろ)坂)




 「藤坂は箪笥(たんす)町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明(でんみょう)寺である。
 『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光 は、牛込高田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
 昔は、この坂 から富士山 が望まれたので、富士坂ともいわれた。
 『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり、一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
     藤寺のみさかをゆけば清水谷
             清水ながれて蕗の薹もゆ(太田水穂





◆藤寺(伝明寺)

上記、藤坂の説明に出てくるお寺。


境内社




藤が見事!
これは来年の藤の季節に来ないとだね。
入口の門左側に立派な庚申塔があった。





◆十一面観世音菩薩



上記、藤寺の敷地脇にあった。




◆庚申坂



 「小日向第六天町の北、小石川同心町の境を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂を切支丹(きりしたん)坂というは誤りなり。本名”庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』 
 庚申信仰は庚申(かのえさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向こう側の坂のことである。
 「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』





◆小石川高等小学校跡/旧同心町



石川高等小学校跡

 明治41年(1908)4月、新しく小学校卒業生を対象とする修業年限2-3年の普通教育をほどこす「高等小学校」が設けられることになった。
 旧小石川区内で1校設けられたのが、「黒田尋常小学校」(現在地・旧文京区第五中学校)に併設された「東京市黒田高等小学校」である。生徒数460名。
 同年10月に旧竹早町109番地(現在地・竹早公園)に独立校舎を新築し移転する。同時に名称を「東京市石川高等小学校」と改める。
 昭和3年(1928)、この地(同心町20)に鉄筋校舎を新築移転する。生徒数1374名。
 昭和16年(1941)4月、「東京市小石川国民学校(高等)」となる。
 昭和22年(1947)3月、学制改革により廃校、新設の「文京区立第三中学校」に引き継がれる。
 その後、校舎は「小石川工業高校」「小石川高校」が使用したが、昭和35年4月から「文京区立茗台中学校」となった。



旧同心町

 幕府の先手組(さきてぐみ)の同心屋敷があったので、俗に同心町と唱えた。
 先手組は組頭の下に与力・同心で組織され弓組と鉄砲組とがあった。将軍出陣のとき先ぽうをつとめる。平時は江戸城本丸の諸門の警備や、将軍外出のときは供をしてその警衛にあたった。
 先手組の組頭は火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を兼ねており、与力・同心は市中の警備も行った。
 同心は与力に属した下級武士である。江戸町奉行はいかにも町役人の与力を助ける同心がいた。いわゆる八丁堀の同心である。
 明治5年、近臨の土地を併せて旧来の名をとり同心町とした。









徳川慶喜終焉の地



 徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩徳川斉昭(なりあき)の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍徳川家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。
 明治維新後、駿府静岡県静岡市)に隠居した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされた。大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没す。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。





続く。




すぐ脇に丸の内線が見えた。

2018/06/26 小石川散歩 03 永井荷風生育地/安藤坂/春日一丁目児童遊園/萩の舎跡/旧小石川区旧小石川区役所跡役所跡/牛天神北野神社

春日通りから離れて南下。
ちょい西へ行くと神楽坂エリアだね。



永井荷風生育地




 永井荷風(1879~1959)小説家、随筆家。本名荘吉。別号断腸亭主人など。作品には、『あめりか物語』、『腕くらべ』、『濹東綺譚』や『断腸亭日乗』などがある。
 荷風は、明治12年(1879)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほど麹町の官舎へ)
 明治19年には、黒田小学校(旧区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。
 『狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。
 「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売り物となっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。・・・・」
 小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常に其の周囲を離れぬのである・・・・」 とある。




◆安藤坂




 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。
 江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが,1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで,戦前は「安藤殿坂」,戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
 古くは坂下のあたりは入江で,漁をする人が坂上に網を干したことから,また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。





◆春日一丁目児童遊園

ちょっと休憩させてもらった。
シャツクールと日焼け止めをドバドバぶっかけた(w




◆萩の舎跡




 塾主中島歌子(1844〜1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田家にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
 御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集『萩のしづく』などがある。明治36年(1903)、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
 樋口一葉(1872〜96)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。明治23年(1892)18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水(なからいとうすい)に師事して、処女作『闇桜』(明治25年)を発表して、小説家の道に進んだ。
 近くの牛天神北野神社(春日1−5−2)境内に中島歌子の歌碑がある。




◆旧小石川区役所跡

google mapに載っていたので来てみたが、現地には説明板など何もない。
マークの位置は右側の大きな建物のあたり。


小石川区を調べてみると、1947年(昭和22年)に、本郷区と合併して文京区を新設すまで存在した区とのこと。




◆牛天神北野神社




撫で石





太田神社、高木神社




 芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と、武の神・猿田彦命をまつる。人々の信仰厚く、関東大震災のころまでは、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人でにぎわったという。芸能の神として、歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者がたびたび参拝に訪れた。
 なお、この神社はもとは貧乏神といわれた暗闇天女(弁財天の姉)をまつっていたが、江戸のころ、この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。
 合祀の高木神社は、旧・第六天町(現・小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を、道路拡張に伴い、ここに移したものである。



中島歌子歌碑




 北野神社 は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は、菅原道真公である。
 縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
 境内の南側に、中島歌子(1844〜1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
 門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃 らはその門弟である。
 歌碑は歌子の死後、明治四二年(1909)門下生によって建てられた。

雪 中 竹
ゆきのうちに 根ざしかためて若竹の
 生ひ出むとしの光をぞ 思ふ









続く。