2018/10/28 01 淀橋市場まつり

お休みで、細君と大久保にある淀橋市場のお祭りに行ってきた。
去年も来たこともあるが、お野菜など格安で販売していてうれしい♪



去年来たときの様子はコチラ
2017/10/22
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20171022/1508726013
そういえば雨が降ってたね・・・・。





宝船

まつり中は屋台やお店が並んでいるが、普段はギッシリお野菜など取引される商品が並んでいるとのこと。



おでん

味噌がとても美味しい!



やきいも

ホクホクで美味しかった。






他に安い商品を買って帰宅。
1か月に一度くらいやってくれないかな(w

2018/10/28 02 旧吉岡家住宅

淀橋市場の後は買い物したものを一度家に置いて・・・・
武蔵大和にある「旧吉岡家住宅」へ


◇主屋兼アトリエ


















アトリエ




 主屋の建築は、明治中期のものと考えられます。建築形式は、武蔵野の農家に見られる田の字型の四間取り形式です。室内には欄間のモダンなデザインが見られます。
 昭和19(1944)年には、吉岡が自ら土間をアトリエに改造しました。
 昭和30年ごろには、養蚕のために茅葺屋根の胸に設けられた煙抜きを雨漏りが深刻になったため、撤去しました。
 さらに昭和37(1962)年から38年にかけて大規模な改築が行われ、屋根は低く切り詰められ、瓦葺きに変えられました。玄関の入り口には大理石が敷かれ、2階に上がる階段も付けられました。アトリエも、天井を高くし、採光を考えた造りとなりました。
 アトリエでは、吉岡自身の数多くの作品が生み出されたほか、昭和42年には法隆寺金堂壁画の再現模写作業がこの場所で行われるなど、美術史においても貴重な役割をはたしています。




下屋(げや)下駄

写真、なんでこんな白飛びしちゃったんだろ・・・(汗



 下屋の下に丸材で作られた下屋下駄があります。
無節で継ぎ目のない杉の丸太材で造られており、東西方向に長さ8間(約15m)西側に4間(約7m)に及ぶ太い材料です。
 南材と西材が交差する部分は、捻竿鯱(ひねりさおしゃち)の技法を使っており、きわめて難しい宮大工の技です。
 (寺院建築では丸桁(がぎょう)と言い、古刹で良く見ることができます。)



捻竿鯱(ひねりさおしゃち)

僕が一度解体したら元に戻せなさそうだったのでやめておいた(w




◇中門(ちゅうもん)

 中門は、東側の道路から屋敷内に入るための門でした。しかし、昭和37(1962)年〜38(1963)年の主屋改修時に表門に長屋門が設けられたので、この場所に移されました。
 現在は、主屋西側に設けられた坪庭への門として使われています。
 中門の形式は、支柱の上に切妻屋根を載せた棟門です。2本の主柱にそれぞれ添え柱のつく、いわゆる「腕木門」で、移設に際して一部の部材が取り替えられていますが、往時の構造をよく残しています。
 屋根は、「起り(むくり)屋根」の構造をしています。これは、日本独自の建築様式で、全体的に柔らかさを出すことができます。





◇蔵





 土蔵は、江戸時代以降に、城郭で発展した技術が生かされ、火災や盗難防止のために盛んに建てられました。
 吉岡家の蔵の形態は、置屋根で出入り口と窓の開口部に観音開きの防火戸が見られます。内部1回の壁に打ち付けられた木札から、明治17年ごろの建築と判明しました。
 蔵の内部は二階建てです。昭和前期(吉岡が購入する昭和19年以前に)、外側の損傷を補強するためモルタルでこれを覆ったということがわかりました。
 入り口側の壁の上には、「山藤」の文字が掲げられていますが、これは吉岡が家屋敷を購入する前の持ち主である池谷家の藤右エ門の名に由来するものです。




◇井戸と電気設備

離れたところに「井戸」
そのすぐ裏に懐かしい電気設備が。




かなり古いね・・・。




長屋門

 この長屋門が吉岡家に建てられたのは、昭和37(1962)ねんから昭和38(1963)年の主屋改修時です。東村山にあった他家の長屋門の解体部材を用い、現在地に再建しました。
 長屋門は日本の伝統的な門形式の一つであり、江戸時代に諸大名の武家屋敷門として多く建てられました。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせましたが、その一部に門を開き、一棟としたものが長屋門の始まりと言われています。
 従って、門の両側部分に門番の仲間(ちゅうげん)部屋が置かれ、家臣や使用人の居所(いどころ)に利用され長屋門と呼ばれるようになりました。
 その後、長屋門は上級武士の住宅の表門の形式として広く利用されるようになり、明治以降は各地の富農の家屋敷にもつくられるようになりました。






吉岡堅二旧宅

 日本画家・吉岡堅二が、昭和十九年(1944)年に転居してから平成二(1990)年に亡くなるまでの間、日本画創作の場であったアトリエ兼住まいである。
 母屋の建築年代は不明であるが、東側に土間、西側に和室四間をもつ、武蔵野の農家の典型亭的な形式であったと考えられる。移転当初、以前住んでいた東伏見から運んだ部材などを利用して、土間をアトリエに自分で改修した。
 昭和三十七〜三十八(1962〜1963)年に、茅葺屋根を瓦屋根にし、アトリエの天井を高くして明り採りを設け、二階に二部屋を設置し、玄関の土間を大理石に、廊下周りの障子をガラス戸にするなどの主屋の改修を行った。また、それまでの門を主屋西側に移築し、長屋門を新たに移築した。その後もアトリエの改修などを重ね、現在の形となる。
 作品のモチーフにするために、庭にはカキ、キーウィなどの果物や、イチリンソウニリンソウモクレンなどの野草や樹木がみられ、ネコやヤギ、キジ、カラス、ウコッケイなどの動物を飼っていた。



登録有形文化財・旧吉岡家住宅

 平成29年5月2日付で、日本画家・吉岡堅二の旧宅(主屋など4件)が国の登録有形文化財に登録されました。
 豪農層の農家の景観を保つ、明治中期の建築物が現存していること、この建物で半世紀近く日本画家・吉岡堅二が創作を行ったという点が評価されたものです。





ボランティアガイドの方も丁寧に解説して下さり、大変良かった。
これからも大事にしていきたい文化財だね!

2018/10/28 03 武蔵大和散歩 清水神社/清水観音堂/本村橋/狭山公園/西武線

旧吉岡家受託の後は武蔵大和を散歩。
多摩湖などを見る。



◆清水神社





境内社



清水囃子 モニュメント



  清水囃子は幕末に始まったそうです。その当時練習はなかなか大変だったようです。
  農家が暇なのは冬ですから、どうしても練習は寒さが身にしみる時期に行われます。練習場所 は清水神社境内にありました公会堂でした。
 練習には、丸太に荒縄をぐるぐる巻き付けて太鼓に見立てて数人が並んで、テレツク、テレツクと拍子に合わせて打つのですが、昔の公会堂は窓ガラスも割れ、すきまだらけの床からは冷たい風が吹き込んで、蒲(がま)を敷いただけでは、居ても立ってもいられないほどでした。
 毎日寒げいこが続いて、清水神社の森に笛や太鼓の音が響きました。
 戦後の昭和二十八年に、しばらく途絶えていたお囃子が始められ、現在も氏子の皆様のご協力により清水囃子として引き継がれ祭礼や市の催しなどで演じられています。また清水囃子は市技芸の指定を受けています。



鳥居





◆清水観音堂


狭山三十三観音霊場 十五番札所 清水観音堂

 狭山三十三観音霊場は狭山丘陵付近に点在し、一説には天明八(1788)年に創建されたといわれている。清水観音堂は、十五番目の札所である。
 観音巡りは、人々の心の支え、安らぎを求めるためのもので、明治の中頃まで盛んであった。
 本尊は「正観世音菩薩」で、高さ一尺五寸(約45センチメートル)の立像が安置されている。
 清水観音堂詠歌(「武蔵野狭山観世音順「ネ豊」記」より)
   清く映れる水の面
     ふかきちらかひを くみてしるらむ 
※「ネ豊」の部分は漢字が出てこなかった。レイと読むとのこと。




清水本村橋の石橋供養塔




 この供養塔は方柱形石碑で、天保四(1833)年、前川に石橋を架けた際、建立されたものである。
 前川に架けられた清水本村橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。
 建立以来、清水本村橋の南のたもとにあったが、平成十六(2004)年一月、人道橋の設置工事に伴い、現在地へ移された。




砂の橋の石橋供養塔



 この石橋供養塔は、文化十一(1814)年、清水村の原七郎左衛門母妙智尼が建立したものである。砂の川(空堀川)に架けられた砂の橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。
 大正十五(1926)年、老朽化した砂の橋を架け替える際、清水観音堂敷地内に移設された。




◆本村橋







◆狭山公園




宅部池(やけべいけ)



 この池のあたりは、葦(あし)の繁茂する湿地帯で、そのほとりの道は、大和村から宅部および埼玉県に通じ、近郷の人びとの交易に重要な道でした。
 村山貯水池が完成間近な1925年(大正十四年)八月、大和村狭山に住む”たっちゃん”(当時10歳)という泳ぎの上手な子供が、この池で泳いでいておぼれてしまいました。工事をしていた人の中に、海軍兵経験の人も何人かいて助けに入りましたが、そのうちの二人も池にのまれてしまったと語りつがれています。
 それ以来、この池を「たっちゃん池」と呼ぶようになりました。




多摩湖



途中で買ったお弁当を二人で食べる♪





西武線




帰りは西武線で懐かしの国分寺へ!
すっかり変わってしまった国分寺を少し散歩して帰った。




高円寺到着

駅からの夕日がきれいだった。




高円寺フェスでお神輿が出ていた。




細君ととても楽しい一日を過ごせて幸せだった♪