2020/02/23 鵜の木散歩 03 石塚橋跡/庚申塔/女堀/嶺北向庚申塔/鵜の木松山公園/鵜の木一丁目横穴墓群/河原坂

沼部駅付近から鵜の木駅のある南へ進む。


◆石塚橋跡

六郷用水。








庚申塔



庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として栄え、庚申供養塔は、その象徴として村の厄災を防ぐため建てられたという。当地(旧嶺村の高砂(たかさご))の住民が庚申塔を建立した。地域の人々の暮らしの無事を祈る風習が現在も続いている。






◆女堀



 六郷用水の由来
 六郷用水は、徳川家康が家臣小泉次太夫に命じて、六郷領(大田区の大半)農村の灌漑を目的として、開さくされた農業用水である。徳川氏は、江戸支配の基礎作りの一つとして、多摩川の治水を行い、中流より分水して農業用水を引き、江戸南郊農村の生産性の向上をはかった。この時、川崎側の川崎、稲毛領のための「二ヶ領用水」も同時に工事が進められ完成している。
 六郷用水は、和泉村(現在の狛江市和泉)を取水口とし、慶長二年(1597)に測量を始め、難工事の末、同十四年に主要水路が完成しその二年後、各村の分水路工事も終わり、全事業が完了した。この結果、世田谷領の一部と六郷領を合わせて約五十カ村が恩恵をうけることになり、以後、近代まで農民の命の綱として利用された。時代とともに、用水流域の様子も、水田から畑に、また農地から宅地に変わり、昭和の初めごろには用水としての使命を終え、現在ではそのほとんどが埋めたてられ緑道などになっている。




 女堀(おなぼり)
六郷用水のこの付近の流れを女堀と呼び、そのいわれも色々です。一つはこのあたりの高低と固い地盤によって堀の開削工事は難行しました。その際、作業に女性を動員し、男女が力を合わせて能率を上げたことから呼ばれる説です。いま一つは、工事を担当した代官小泉次大夫が浅間神社(玉川大公園前)の丘近くを工事しようとした時です。夢に現れた女神(木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)⋯浅間神社の祭神)のお告げにより、丘を切り崩さずにう回して工事を進めたことから女堀と呼ばれる説です。日本各地に女堀の名前が残り、そのいわれも様々なようです。



嶺北庚申塔






◆鵜の木松山公園







◆鵜の木一丁目横穴墓群鵜の木松山公園内



鵜の木一丁目横穴墓群について
 多摩川流域の横穴墓は、古墳時代(六世紀末)から奈良時代(八世紀前半)にかけて、台地斜面に横穴を掘って造られた地域の有力者のお墓です。
大田区周辺の台地斜面では、鵜の木台地をはじめとして、いままでにおよそ260基の横穴墓が発見されています。
 鵜の木一丁目横穴墓群は、「区立鵜の木松山公園」の東斜面標高約12mの地点に、七世紀後半から八世紀前半にかけて構築されました。昭和
61年(1986)の公園造成の際に2基が、平成17〜19年(2005〜2007)の公園整備で4号〜7号墓が発掘調査されています。
 なかでも6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門(きりいしせんもん)構造をもつ貴重な横穴墓であることから、発掘当時の姿で保存しています。

6号横穴墓について
 6号墓は、墓道(ぼどう)と羨門(せんもん)および墓室からなり、全長11.3mと長大です。
 墓道は切り通し状で、被葬者(ひそうしゃ)を墓室へ運び、墓前祭を行う場所で5.9mあります。
 泥岩製切石(でいがんせいきりいし)の羨門は、高さ1m、幅0.7mあり、3段積の切石で閉じられていました。
 墓室は徳利を半分に割った形で、全長5.4mです。被葬者は墓室奥に、礫(れき)敷きの棺台(かんだい)に3体埋葬されていました。3体は、20歳前後2体と30歳以上1体です。うち1体は、20歳前後の女性と判明しています。
 3体の被葬者が追葬されていることから、6号墓は有力者の家族墓と考えられます。
 6号墓は、その形態と付近の横穴墓の年代から、奈良時代前後(いまから1300年前頃)に造られたと考えられます。




◆河原坂




 現在の鵜の木二・三丁目付近は、昔、多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。坂名の由来は、河原に出る坂道であることによる。今は「切通」になって、ゆるやかであるが、以前は道幅も狭く急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは難儀をしたという。


続く。