2020/10/06 芝公園散歩 10 看護婦教育所創設の地/東京病院発祥の地/本多弥八郎屋敷跡/コソボ大使館/鏡照院/永谷園本社/ジャパンディスプレイ本社

芝公園東側から日比谷通りを北進。
途中細い路地を西へ進みまた北進。
病院関係が多いエリアだ。



◆看護婦教育所創設の地

明治十七年十月東京慈恵会医科大学学祖 高木兼寛米人リード女史ヲ聘シ有志共立東京病院構内ニ看護婦育成ノ業ヲ興ス。
是本邦斯界ノ靉靆タル暁雲ニ赫雲ニ赫耀ノ配セルヲ観ルニ庶シ。
創始ノ百歳ヲ記念シ此碑ヲ建ツ。




碑は「慈恵看護専門学校」前に建っている。







東京病院発祥の地

何も見当たらないなあと素通り。
ストリートビューで見たらあった・・・・。
逆から歩いてくればわかったかもだね。



明治24年高木兼寛東京病院をこの地に開いた旨の碑文が刻まれているとのこと。
後ろに建つ病院(慈恵大学病院)の前身だね。








◆本多弥八郎屋敷跡

説明板など何もなかった。



google mapのマークはだいたい上の写真辺り。



赤枠で囲ったところが敷地になる。
『本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の家臣で、江戸幕府の老中。相模国玉縄藩主。正信系本多家宗家初代。本姓は藤原氏
徳川家康が抱える鷹匠から身を興したが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。一時松永久秀に仕えた後に数年から10年以上の間を流浪の身として送る。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 』
『改名 弥八郎(仮名)、正保、正信』
本多正信 - Wikipedia







コソボ大使館



道路左側に建つ白い高い建物。

コソボ共和国コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。』
コソボ - Wikipedia







◆鏡照院



右側の神社は「末廣稲荷神社」



 応永六年(1399)、常陸国海上に出現した「身代不動明王」を笠間の地で祀っていましたが、慶長八年(1603)、愛宕山下に開山されその後、平成六年当地に移転いたしました。
 この不動尊像は弘法大師の御作と伝えられあらゆる災厄に際して身代りに立って下さるありがたい仏様で、将軍家をはじめ諸大名からの信仰を得たといわれています。その霊威は脈々と息づいております。
 本堂前にお祀りしております稲荷社は京都伏見稲荷大社より明治時代に勧請されたものです。
 商売繁盛の御利益があります。







永谷園本社

前に反対側から写真を撮ってしまって、なんのビルだかよくわからない事になってしまった。
こちらから撮ると「永谷園」って書いてあった。

2020/10/04 虎ノ門散歩 06 西桜歩道橋/大坂屋虎ノ門砂場/キッコーマン本社/南桜公園/永谷園本社/国際廃炉研究開発機構 - ovanの社会科見学







ジャパンディスプレイ本社

東証一部上場企業。
『株式会社ジャパンディスプレイ(英称:Japan Display Inc. 略称はJDI)は、ソニー東芝日立製作所の中小型液晶ディスプレイ事業を統合した会社。』
何度も経営不振のニュースを聞いたような気がする。
頑張ってほしい。



5F~7Fまでがジャパンディスプレイ


かなりのテナントを占めている日本モーゲージサービス株式会社も調べてみた。
こちらもこのビルが本社。
東証一部上場企業。
『日本モーゲージサービス株式会社(にほんモーゲージ、英:Mortgage Service Japan Limited.)は東京都港区にある住宅金融事業を行う会社である。 』
日本モーゲージサービス - Wikipedia


住宅分野での多様な事業を展開する企業グループとあった。
参考
会社概要|日本モーゲージサービス株式会社





続く。

2020/10/06 芝公園散歩 09 芝公園(日本近代初等教育発祥の地・伝染病研究所発祥の地・浄土宗近代教育発祥之碑地

芝公園東側、増上寺門前あたりを散策。



◆日本近代初等教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)



 わが国の近代初等教育は、明治五年(1873)の学制発布に先立ち、同三年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、六月十ニ日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は八歳から十五歳までとし、机・硯・箱・弁当は各自持参した。
 この小学第一校は、明治四年に、西久保巴町(虎ノ門三丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小
学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。








◆伝染病研究所発祥の地



北里柴三郎は福澤論吉始め民間の援助を受け明治二十五十ー月三十日この地に開設された大日本私立衛生会附属傳染病研究所において 細菌
学の研究を開始し傳染病の撲滅に多大の貢状をした 爾米傅染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っている 側立百年に当たりゆかりの地
に碑を建て 先入の偉業を顕彰するものである








◆浄土宗近代教育発祥之地



google mapのマークは上の写真のところ辺り。
ちょうど御成門駅A2出口前になっている。
説明板らしきものなどは何もなかった。


WEBで調べると天光院前庭の隅、地蔵尊の裏側に碑があるとのこと。
これはもう一度探しに行ってみないとだね。
参考
https://840.gnpp.jp/jodoshukindaikyoiku/






続く。

2020/10/06 芝公園散歩 08 芝公園(みなと図書館・お台場の石垣石・芝公園町舎碑・こども平和塔・伸びゆく子供像・芝公園四号地・開拓使仮学校跡)

芝公園、いちばん北のエリアを散策。




◆みなと図書館






◆お台場の石垣石








芝公園町舎碑

google mapのマークは写真の場所で良いと思うのだけど、刻まれた文字が判読できず、こちらで合っているのかわからない。
裏側を見ると国旗掲揚台のようだが・・・・。






◆こども平和塔



戦争の痛手をきびしくうけたわたぐしたち日本の少年少女は
人類永遠の平和をねがうやむにやまれぬ心のしるしとして
ながいあいだかかつてここにこの塔をたてました






◆伸びゆく子供像



佛子泰夫(1916~1992)
彫刻家とあった。
参考
佛子泰夫 :: 東文研アーカイブデータベース






芝公園四号地


空襲の記憶と芝公園四号地

時代とともに
 芝公園4号地は園内北側に位置し、江戸時代は増上寺方丈でした。後の明治5~9年頃(1872~1876 頃) に北海道大学の前身である開拓使仮学校、明治22~43年頃(1889~1910 頃)は海軍水路部、大正5~大正12年(1916~1923)JR東京総合病院の前身である鉄道省東京鉄道病院などの変遷を経て、関東大震災による病院の焼失以降、公園施設が設置され始めました。第二次世界大戦中の昭和18年頃(1943頃)には本格的な防空壕が造成されるなど様々な地歴のある園地です。

ここにある戦災イチョウ
 このイチョウは銀杏坂 (現在の芝公園三丁目3、4 周辺、 東京プリンスホテル北西側) にあったものが、関東大震災後に新設された4号地に移植されたものと伝えられています。 昭和20年(1945) 5月25日の東京大空襲で被災し、木肌にはその時の焼け跡が残っています。 芝公園周辺は空襲により焼け野原となり、 このイチョウを含め何本かの樹木が当時の記憶を語り継いでくれています。
 現在では、焼け焦げた樹皮を包み込むように成長し、巨木になっています。 保全のため定期的に樹木医による診断や、 負担を軽減する勢定などを行なっています。







開拓使仮学校跡

 北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。
 生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。
 明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。
 仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった






続く。

2020/10/06 芝公園散歩 07 芝公園(銀杏坂・芝公園山内歩道橋・御成門・御成門駅・有章院霊廟二天門・芝公園歩道橋)

前の日記、グリーンヒルズ森タワー公開空地から南下。
芝公園北西エリアを散策。



◆銀杏坂

名前の通り街路樹が銀杏並木だったけど・・・。
こちらも標識などは無かった。


近くにあった地図







芝公園山内歩道橋

「L」字になっている歩道橋だった。






右側の大きな建物は東京プリンスホテル
10年以上前に一度だけ仕事で中に入ったことがある。


プリンスホテルの前あたり、google mapには「旧増上寺 徳川家霊廟(北廟)」とある。
『徳川家霊廟(とくがわけれいびょう)は、江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで、江戸(現・東京)の寛永寺増上寺、及び栃木県は日光の輪王寺にある。江戸時代の華麗な建築技術・意匠の粋を集めた建築群として日光東照宮と並び称されるが、このうち寛永寺増上寺の霊廟は、大部分の建物が1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。』
徳川家霊廟 - Wikipedia
と、wikiにあったので焼失する前はここにあったのだろう。







御成門



 増上寺 (徳川家 菩提寺 )の裏門としてつくられたが、将軍が参詣する際にもっぱら用いられたので、「御成門」と呼ばれるようになった。
 初め「御成門」は、現在の御成門交差点にあったが、明治二十五年の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、この位置に移築された。
 その後、増上寺三門や旧庫裡(くり)門・徳川家墓地の惣門・二天門 とともに、関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。







御成門駅


近くにあった地図







◆有章院(徳川家継)霊廟二天門



現在の東京プリンスホテル敷地には戦前六代将軍家宣の文照院霊廟と並んで、七代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の惣門です。霊廟は八代将軍吉宗享保元年(1716)に建立しました。
その結構は日光に劣らぬと伝わる程でしたが、昭和20年(1915)に東京京大空襲で焼失しました。
この焼け残った二天門は銅板葺、切妻造りの八脚門で、左右に仏法宇護の役目を持つ広目天多聞天の二点がられています。
焼けた文昭院霊廟の門に持国天増長天が置かれ、合わせて四天王として祀られていました。







芝公園歩道橋
こちらも「L」字になっている歩道橋。

下の南北に通る道は日比谷通り。














続く。

2020/10/06 芝公園散歩 06 グリーンヒルズ公開空地(祠・智正庵・法輪大観音・奴地蔵・千里社稲荷)

愛宕グリーンヒルズ森タワー公開空地として整備されている庭園に史跡があった。
急斜面だし、周りにお寺がいくつかあってかなり無理やりビルを建てた印象。
ビルは愛宕山南側の斜面に建っており、エスカレーターでのぼることができた。

マークがないのがあるが日記の場所はこの範囲内。



◆祠







◆智正庵







◆法輪大観音

こちらはさすがにお寺の境内なんだろうね。
帰ってから調べると「青松寺」の境内だった。
アクセス of 青松寺

ビルが建つ前は下から見えたのかなあ?
今は完全にビルで隠れてしまっていると思う。









◆奴地蔵(槍持勘助墓)

右側に建っている碑の両脇には説明が書いてあるはずなんだが、芝生に入ってよいものかどうか迷って結局近寄らなかった。

WEBで調べてみた。
元禄のころ松平越後守の足軽だった槍持勘助の墓があり、人の形をしているので奴地蔵とも呼ばれる。
願をかけると痔病に効き目があるそうだ。
もっとよくお祈りしておけばよかった(謎
参考
奴地蔵 | 東京都 港区 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)








◆千里社稲荷






続く。

2020/10/06 芝公園散歩 05 幸稲荷神社/芝給水所/オランダ大使館/手まり坂/切通坂/光円寺/清岸院

東京タワー通り途中から細い路地に入り北の愛宕山を目指す。



◆幸稲荷神社


御祠石影向石

此ノ霊石ニ注ギ祈願スレバ熱病小児ノ夜泣キ忽チ●●●●
「●」読めなかった。








◆芝給水所

中を見学させてくれないかなあ。
調べても見学会などの情報が出てこなかった。



旧芝給水所の遺構について
 これらの遺構(保存施設)は、明治31年1旧給水所で施設の一部として実際に使用されていたもので、近代水道の建設に従事した当時の関係者の情熱や技術力を後世に伝えるため保存しています。

①正門
 給水所の正門柱は、明治31年に造られた淀橋浄水場に設置されていたものを昭和40年にこの地に移設したもので、更新にあたり平成14年に復元したものです。

②水道管
 建設当時(明治28年)に使用されていた水道管径600mmを保存したもので、表面には明治28年を表す明治「ニ八」の表示があります。(フランジには2本の溝があり、溝内には麻をより込んで止水するメカニズムとなっています)

③馬蹄型通路
 点検用通路として2つの配水池の間に設置されていたものです。天井はアーチ構造を用いています。

④ 配水池連絡管
 2つの配水池をつなぐ連絡管の一部を保存したもので、 ラッバ管とバタフライ弁が確認できます。

⑤ 配水池のレンガ
 配水地のう流壁(水が滞留しないように設けた壁)をブロック状に切り出して、保存したものです。(レンガは明治28年当時の日本製のものを使用しています)

流入弁室外壁・銘板
 明治31年通水当時の旧流入弁室の入口部、銘板を保存したものです。







オランダ大使館







◆手まり坂

標識など何もなかった。
WEBで調べるとこの写真のところ辺りで合っているようだ。
参考
手まり坂 | 港区観光協会 | VISIT MINATO CITY - 東京都港区の観光情報公式サイト

下記「切通坂」で調べたページには「切通坂」の別名が「手まり坂」とあった。







切通

坂上
この写真を撮ったすぐ左側がオランダ大使館



坂下。
こちらも標識などが無かった。
参考
profile/切通坂

こちらのページを見ると「切通坂」の別名が「手まり坂」とあった。







◆光円寺







◆清岸院

切通し坂を下って広い通りを渡ったところにあった。
急な斜面に建っており、本堂前の道を右に曲がると愛宕グリーンヒルズ森タワー公開空地の公開空地になっていた。
お寺も公開空地もエスカレーターでのぼることができた。






続く。

2020/10/06 芝公園散歩 04 金地院/機械振興会館/キヤノン電子東京本社/永井坂/聖アンデレ教会/光宝院

東京タワー通りに出て通りを東へ進む。



◆金地院


境内

彼岸花が咲いていた。


山門


参道入口


堀杏庵(ほりきょうあん)墓

 堀杏庵(1585~1642)は江戸前期の儒医・儒学者です。名は正意、字は敬夫、他に杏隐、敬庵などと号しました。近江国に生まれ、父を継いで医師になります。京に出て藤原惺窩(せいか)の門に入り林羅山などとともに惺門四天王と呼ばれます。安芸国広島藩浅野家、尾張国名古屋藩徳川家に仕えました。寛永三年(1626)法眼に叙され、同一九年、幕命により弘文院に入り「寛永諸家系図伝」の編集に関与しました。他に「朝鮮征伐記」などの著作があります。







機械振興会館

機械振興協会が運営する施設。
一般財団法人機械振興協会(きかいしんこうきょうかい、英: Japan Society for the Promotion of Machine Industry)は、機械工業における経営の改善、技術の向上その他機械工業の振興をはかることを目的として、事業運営をおこなう業界団体である。略称JSPMI。 』
機械振興協会 - Wikipedia







キヤノン電子東京本社

キヤノン電子株式会社(キヤノンでんし)は、埼玉県秩父市に本社を置くキヤノングループの一社。』
キヤノン電子 - Wikipedia
登記上の本社は埼玉県秩父になっていた。
東証一部上場企業だ。

「キャノン」の本社は下丸子にあって、巡ったことがある。
2019/07/03 下丸子散歩 02 妙蓮塚三躰地蔵尊/植樹記念碑/キヤノン本社/白洋舎 東京支店/シエルズガーデン/講和桜之日 - ovanの社会科見学







◆永井坂

坂上



坂下。



江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。







日本聖公会東京教区聖アンデレ教会








◆光宝院








続く。