24時間勤務アケで・・・。
足立区の北部を散歩。
最初に降りた東武線谷塚駅は埼玉県。
ゴールは日暮里舎人ライナー見沼代親水公園駅。
最初に職場近くの新木場駅。
◆谷塚駅
谷塚=やづか なんですね・・・。
今まで知らなかった。
◆谷塚駅東口商店会
◆瀬崎浅間神社
瀬崎の富士塚
椚(くぬぎ)稲荷大明神
◆庄内商店
庄内と名がついてると気になっちゃいますね。
というか営業しているんだろうか?
続く。
毛長川が県境だと思っていたが、途中から足立区になっていてビックリした。
◆東京ガス幹線研修センター
跡で調べたら東京ガスだった。
住所は埼玉県草加市。
◆鷲宮橋(わしのみやばし)
この橋で毛長川を渡る前に都立足立特別支援学校というのがあり、そちらの住所は東京都足立区だった。
境目がわからない・・・・。
◆鷲宮公園
◆花畑大鷲神社
境内社
名前がわからなかった。
3社あるのかな?
神社裏?にあった境内社
この公園名は北側に流れている川を毛長堀と呼び都県境をなす 川中は約参間にて今より約七十年前明治四十年頃は舎人村(舎人、入谷、古千谷)及び埼玉県側(草加町、谷塚村(草加市))の村長は当時化学肥料がなく人糞だけが肥料として農家の貴重な資源で遠く浅草(台東区)向島(墨田区)方面まで汲取りに行き、舟にて隅田川より綾瀬川を上り、毛長堀との合流点より堀を50M位上ると枠が有りその近くに舟をつけ艀(はしけ)舟に人糞を積替え舎人村の二ツ橋まで運び、この堀を利用した枠は桑袋耕地(桑袋小学校 都住)に灌漑用水として、伝右川に木枠の桶をかけ悪水(雨水)を再利用して来た。都経済局農林部農地課が 幹線水路改修工事を昭和四十八年四月に一級河川となり川の名を取り毛長公園と銘名す
だいぶ薄くなっていて字が読めなくなりかけてるね。
富士塚とは、富士山を信仰する人々の集団である富士講によって築造された塚である。
富士山の溶岩石を使用して小山を築き、頂上には浅間神社の祠を祀り、烏帽子岩、小御嶽社をはじめ、実物の富士山と同様に各名所を配すのが一般的であり、登山して参拝できるようになっている。
富士信仰は、文化・文政年間(1804-1829)に江戸を中心として爆発的に広まり多くの講中が結ばれ、講の発達に伴い富士塚の築造も盛んに行われるようになった。
この富士塚は、千住神社、保木間氷川神社の富士塚と同じく伊藤参行を講祖とする丸参講による築造である。築造年代は明らかではないが、石鳥居の年代や伝承より明治初年と考えられている。また、花畑大鷲神社には、この講中により明治五年の記年のある富士登山絵馬が奉納されている。
花畑浅間神社は社殿を持たず、富士塚の頂上に祀る浅間社をそのまま社名とし「野浅間」といわれている。
神社の北側を流れる毛長川流域には、多くの古墳や遺跡の存在が確認されており、この神社もその形態から古墳を利用したものと考えられており興味深い。
昭和五十九年十一月、足立区有形民俗文化財に登録されている。
続く。
毛長川からだいぶ南の方を西に向かって歩く。
歩いた道路の一部が「旧流山街道」だったようだが、
何の変哲もないただの路地だったのでよくわからなかった。
<流山街道>
村の中ほどを東西に通り、成田参詣に通じる路で、別名成田道ともいった。街道に沿って阿弥陀院、玉蔵院、西光寺があり、西光寺の門田には不動尊を刻んだ道標があり
「成田山へ是より十六里(約64km)榎戸まで二十町)」など記されている。
人家もこの道に沿って建てられ、名地、在家、原といったズシ(地縁集団)もこの道を挟んで発展してきた。
<細井宿(通称)>
名主の細井左一氏が1862年(文久二年〜1878年(明治十一年)の間、地元の十才前後の子に「よみ」「かき」を教え、礼儀行儀を重視した教育をした。
<朴堂小学校>
1878年(明治十一年)開設、細井宿の塾生五十七名がそのまま朴堂小学校へ移された。農家の子を対象とした夜学も開き教育した。
1901年(明治三十四年)淵江尋常高等小学校(西保一)が朴堂小学校と竹の塚正矯小学校と合併し創立されるまで存続した。
◆スガマーケット
よく昭和期にあった小さな商店が寄り合った施設だったんだと思う。
かなりシャッターが降りてるね。
大乗院(新義真言宗、小谷野山宝持寺大乗院)の創建は、平安時代と伝承され、また、文永九年(1272)との説もある。
室町時代の中期には七堂伽藍が建ち並び、僧兵までかかえて、大変な権勢を誇っていたといわれる。
濠で囲まれた広大な寺域の中に、本堂・観音堂・塔・薬師堂・鐘楼・山門・庫裡などが配置されていたが、一キロはあった参道の西側には、用水が流れ、道路脇には、大きな松並木があった。参道の西側及び大乗院の周辺の集落は、大門厨子と言い、門前集落としての位置づけである。
当時は、年の瀬になると、山門から流山街道まで、大乗院に貢物を持って近郊からやって来る人が参道に列をなしたほどの絶大な権勢を誇っていたが、中央では、応仁の乱(1467)が始まり、関東でも古河公方(足利成氏)と堀越公方(足利政知)の対立が激化し、双方の前線基地の中間に位置するこの寺が、戦乱に巻き込まれ文明元年(1469)、敵側の焼き討ちに遭い、権勢を誇っていた七堂伽藍も焼失した。
壮大な山門として入封を誇っていた”大乗院の大門今も大門厨子を中心とした住民の心の中にその精神が生きている。
毎年1月7日の早朝、旧大門地区の住民が大乗院の境内に集まり、わらを編んで大蛇を作り、それを山門脇のイチョウの木にかけて、五穀豊穣と無病息災を祈願する「じんがんなわ祭り」の民俗行事がある。
大門厨子=だいもんずし
調べると、寺の周辺地域の24軒からなる「じんがんなわ保存会」の会員たちのこと。
保木間稲荷神社/疱瘡大神
田中正造と保木間の誓い
1890年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。1898年(明治三十一)9月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。
流山道
本説明板の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間で日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。
この神社は以前来ている。
あまり詳しく紹介してないので、今回詳しく紹介してみた。
2016/07/02
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160702/1467578916
続く。
西へと進んで東武線竹ノ塚駅を超える。
さらに西へと進んでいく。
淵江村を調べてみた。
「淵」と表記されていたり「渕」と表記されているがどちらでもよいみたい。
1889年(明治22年)保木間村、竹塚村、六月村、伊興村を統合し渕江村が発足した。
1891年(明治24年)伊興村が渕江村より分離。花畑村の飛地を編入した。
1932年(昭和7年)千住町、西新井町、梅島町、舎人村、東渕江村、伊興村、江北村、綾瀬村、花畑村とともに東京市へ編入され足立区となった。
◆竹ノ塚駅
白幡塚は直径約12メートル、高さ約2.5メートルの円墳で、およそ5〜6世紀の築造と推定されています。かつて毛長川南岸の伊興地区には、擂鉢塚(すりばちづか)、甲塚(かぶとづか)、船山塚などの古墳があり、伊興古墳群を形成していましたが、現在では白幡塚古墳が残るのみです。
白幡塚という名称は、康平5年(1062)源頼義、義家親子が欧州遠征の途上この地方の豪族を破り、この地に白旗を立てたことに由来するといわれています。
周囲は白幡塚史跡公園として整備されています。
白幡塚史跡公園は以前行ったことがある。
2016/07/02
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20160702/1467578916
◆東岳寺
初代安藤広重墓及び記念碑
安藤広重(1797—1858)は、江戸時代後期の浮世絵師です。広重は、八重洲河岸定火消組同心の子として生まれ、文化八年(1811)、十五歳のとき歌川豊広に入門し浮世絵を学び、歌川の画姓と広重の号を許されました。浮世絵諸派の画風を学ぶとともに洋画の遠近法を加味し、風景画や花鳥画で人気を集めました。また、天保年間に「東海道五拾三次」を発表し、一躍名声を得たことでも有名です。
墓所は昭和三三年(1958)の再建で、記念碑は大正一三年(1924)に建てられたものですが、昭和五二年に現在地に再整備されています。なお、現在では安藤広重ではなく、歌川広重という呼称が一般的です。
◆早房御嶽神社
どこにもそれらしいものがなかった。
google mapにマークしてくれた人は何を参考にしたんだろう?
続く。
多少縦方向(南北)に歩いたりもしたが、舎人公園に向かって西の方へ行く。
「六万部」とは法華経ニ十八品を繰り返し六万回にわたって唱える意味で「六万部経塚」の名の由来もここにある。
寿福山長勝寺の第一世智性院日座聖人は1705年(宝永二年)国土の平和と、皇室の行く末の平安とこの土地の住民並に壇信徒の未長き幸せを祈願し小石に題目を書写してこの土地に埋めたとされる。日座聖人と聖人が始めた題目講の信徒は、昼夜の別なく法華経を読誦しその法章は周囲に響き渡って、多くのものの信仰を集めることになったという。以来土地のものは、この地を「六万部」と称し、諸願の達成を祈るところとなった。
古くからある塚碑には「宝永二年霜月十三日立」とある。平成三年長勝寺第四十二世・慈海院日和上人の時代にこの経塚を整備再建し「南無妙法蓮華経」の題目を書写した法塔が建立されることとなり、攻めて世界平和、国土安穏、法華経弘通、参詣者の諸縁吉祥 心願満足が祈念された。
「南無妙法蓮華経」とは天地一切を貫く「真理」であり、万物の母なるものである。この前に一切の宗派なく、われも他人もともに絶対平等の命を現すことが出来る。
この法塔の功徳が万人に至ることを祈るものである。
この一大事業が成し得たことは母なる妙法と父なる釈尊の加護と感謝し、またこの再建に助力を寄せた多くの方々に厚く御礼の意を表しその名を法塔の基盤に永く記すものである。
◆伊興村役場跡
伊興村を調べてみた。
1889年(明治22年)伊興村、保木間村、竹塚村、六月村の4か村を統合し渕江村が発足。
1891年(明治24年)渕江村より独立し伊興村成立。
1932年(昭和7年)千住町、西新井町、梅島町、東渕江村、渕江村、舎人村、江北村、綾瀬村、花畑村とともに東京市へ編入され足立区となる。
◆西大西島八幡神社
◆薬師寺
続く。
さて残り1つで帰る前に、何か残してないか調べてみる。
google mapにいっぱい出てきた!
なーんーでー?
ということで、延長戦。
◆神領堀親水緑道
「御神領(ごしんりょう)」について
御神領堀の名前の由来となった「御神領」とは、徳川将軍家の菩提寺である上野の東叡山寛永寺の領地の名前です。寛永寺は一万石の領地を持つ江戸時代最大級の寺院で、「神」となった将軍たちをまつる寺院です。その寛永寺の領地であることを表した名前で別に山号をとって東叡山領とも称していました。足立区内では伊興・鹿浜・加賀皿沼・堀内(ほりのうち)・沼田・高野(こうや)の6カ村が寛永寺の領地となり神の領地という意味で「御神領」と呼ばれていました。
◆入谷氷川神社
出羽三山
田舎を思い出す♪
入谷古墳跡
左側に写っている碑は「入谷古墳跡」と書かれている。
入谷古墳については、文政五年(1822)徳川幕府が各地の村などを調査して作成した「新編武蔵風土記」入谷村の記録に「八幡社 塚上ニアリ。土人白幡八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当初ニ幡ヲ立シヨリ、カク称セリト云」とある。この地域は東京東部低地(足立区・葛飾区・江戸川区・帰宅・荒川区・墨田区)の北辺にあたり、足立区内でも最も早い時代(四世紀頃)に古代の人々の集団生活がはじまった場所の一つである。
毛長川沿岸には舎人遺跡・伊興遺跡・花畑遺跡などの多くの古墳時代の遺跡が確認されており、これらの遺跡とともに多数の古墳が過去に存在したことが知られている。昭和四十九年、当地の区画整理事業に当り、予定ではこの塚の半分以上が削られるところであったが、地元住民の熱意によりこの塚が保存されることになった。入谷氷川神社氏子総代が中心となり、計画を変更し保存に協力したのである。
現在、区内に残されている古墳は東伊興の白幡塚古墳一基のみとなってしまっている。古墳の可能性の高いこの塚が保存されることは、きわめて有意義なことである。
◆庚申塔
◆古千谷天祖神社
続く。