2018/04/12 湯島散歩 01 神田駅/ 鷹岡(株)東京支店/万世橋駅舎基礎/旧万世橋駅遺構/万世橋/旧銀座線万世橋駅

24時間勤務アケで、神田駅から湯島経由で御茶ノ水まで歩いた。
途中、秋葉原近辺を通ったがかなり変わってるなあ・・・。



◆神田駅

今回は神田駅北口交差点を撮ってみた。




◆鷹岡(株)東京支店

とてもレトロな建物だったので写真を撮った。
繊維品卸売業の会社とのこと。




こんな看板があった!




万世橋駅舎基礎(地下遺構サークル)

ガラスの下に基礎部分が見える。
写真が撮りづらい。



万世橋神田祭

 外神田にある神田明神は、平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来芝崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は、山王権現山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭神田祭は、隔年で執行され、各町が自前で山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くもので、祭礼番付と呼ばれるパンフレットが毎年作られるなど、名所化されていった。神田祭は、9月15日に庶民の祭礼として執り行われ、雉子町の町名主である斎藤月岑(げっしん)が著した「江戸名所絵図」や「東都歳時記」によれば、贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷(きじき)を造って見物したとある。
 明治時代の「新撰江戸名所図会」によれば、明治12年神田祭は、40余りの山車が八辻(筋違八小路・すじかいやつこうじ)に集合し、万世橋を渡り、聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向かったとある。電線の設置など都市の近代化によって、明治期後半以降山車行列が難しくなり、巡行が少なくなっていく。




◆旧万世橋駅遺構



震災復興と万世橋

 明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年にその石材を再利用して、直違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成した。この橋を、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に萬世橋東側に木橋を架けて馬車鉄道が開通する。
 明治36年(1903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、後に撤去された。この新しい万世橋は、路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、医師及びコンクリート混成のアーチ橋に架け替えられた。
 現在神田川に架けられている橋の多くは、震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架けられたもので、各橋は地域性をふまえたデザインで造られたという。トラストアーチ橋の聖橋、銅ラーメンゲルパー桁橋の御茶ノ水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など、神田川にある震災復興橋梁は、様々な構造で造られ、親柱や欄干のデザインに特徴を見いだすことができる。



万世橋



一度写真を撮っている。
2017/08/15
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170815/1503050085


少し手前に筋違見附があったとのことだが、全く痕跡が残っていなかった。




◆旧銀座線万世橋駅



どのあたりかわからないが、地下に昔使われたホームが残っている。
ライトアップして車窓から見られるようになっていた時期があったとのこと。



ギャラリー



交差点の一角にこんなコーナーがあった。




続く。

2018/04/12 湯島散歩 02 神田田代町/花房稲荷神社/秋葉原練塀公園/神田消防署/伊東玄朴住居跡/西洋医学所跡

山手線に沿って北上する。
電車でよく通る場所だが、下は始めてだなあ。



◆神田田代町



 この界隈は、外神田四丁目になる前は、神田田代町と呼ばれていました。
寛政五年(1793年)、湯島の無縁坂から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、町の一部が火除地となりました。翌年、そこに住んでいた人々が、御成道(おなりみち)の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。そのため、この一帯は神田須田町二丁目代地、小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、神田花房町代地などと呼ばれる町になりました。
明治五年(1872年)、このあたりが俗に「神田代地」とも称されていたことから、それを略して「田代町」と名付けられました。千代田区に属した昭和二十二年(1947年)からは神田田代町と改称され、同三十九年(1964年)に住居表示が実施された際、周辺の町の一部と合併して、現在の町名「外神田四丁目」になりました。
町内の路地裏には「花房稲荷神社」があります。現在の社は戦後、地元住民が再建したものですが、神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。



◆花房稲荷神社




ものすごく細い路地を通ったところにある。




秋葉原練塀公園



八重桜がまだがんばっていた。



公園名について

 本公園は、平成27年に新設した台東区50番目の公園であり、過去と現在を繋ぐ意味を込め、現在の町名である「秋葉原」と、旧町名である「練塀町」を合わせ、公園の名称としたものである。


旧町名(練塀町)と現町名(秋葉原)の由来

 旧町名である練塀町の練塀とは、土と瓦で築き、上を瓦で覆った塀のことで、江戸時代、練塀で囲まれた屋敷があったことから、この辺りが練塀小路と呼ばれていたことに因む説がある。
 また、現町名である秋葉原は、明治の初め、大火が発生し、このあたりの地一帯を火除地としたのち、その中心に「鎮火社」を創建したところ、人々が火除けの神様である秋葉権現を祀る秋葉神社と呼び、この鎮火神社のある界隈が「秋葉の原」「秋葉が原」「秋葉っ原」などと呼ばれていたことに因む説がある。昭和39年(1964)住居表示制度で台東区練塀町全域が松永町とともに現町名の秋葉原となった。



◆神田消防署




◆伊東玄朴住居跡



google mapに載っていたので来てみたが、説明板など見当たらなかった。
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医
お墓は谷中の天龍院にあるとのことだったので、機会があったら行ってみよう。



◆西洋医学所跡

こちらもgoogle mapにあったので来てみた。
説明板などは見当たらなかった。

webで調べてみたのだが、情報がどれが何を指しているのかわからない(オヴァンの頭がバカ)ので、機会があったらゆっくり調べてみようと思う。



続く。

2018/04/12 湯島散歩 03 神田元佐久間町/道路のみどり記念碑/日本最初の喫茶店/鱗祥院/箭弓稲荷神社/中坂

西洋医学所跡から北西の方向に歩く。



◆神田元佐久間町




ここはかつて神田元佐久間町と呼ばれていました。
江戸時代、この界隈には豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。
明治二年(1869年)十二月に発生した火事で、このあたりは様相を一変します。神田相生町から出た火は、現在の外神田周辺を焼き尽くしたといわれています。明治新政府は、神田佐久間町一丁目内にあった神田柳屋敷などに火除地(ひよけち)(防火のための空き地)を設置しました。そのため、そこに住んでいた人々が代地として小笠原家屋敷跡に移転してきたのです。明治三年(1870年)のことでした。
神田元佐久間町の町名が生まれたのはこの時です。新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するため「元」が付けられたのです。
明治四十四年(1911年)、いったん元佐久間町と改称されましたが、昭和二十二年(1947年)、千代田区ができたときに町名はふたたび神田元佐久間町となりました。この町名は、一帯が住居表示の実施によって外神田五丁目となる昭和三十九年(1964年)まで使われていました。



◆道路のみどり記念碑




google map に載っていたので来てみた。
足元にあるのに気が付かず、何度も付近を往復する。
というか、これってMAPに載せるほどのものなのかな・・・・・。




◆日本最初の喫茶店「可否茶館(かひさかん)」跡地



明治21年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。
二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。

一階には『トランプ, 玉突き, クリケット, 碁, 将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室,化粧室,シャワー室,調理場などの設備の他に、『内外の新聞, 雑誌類, その他和漢洋書, 書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル, 角テーブルを配置, 椅子は籐であった。

コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理, パン, カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。
設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戦」で有名な
鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。




◆鱗祥院

表の門だけ、写真を撮らせてもらった。




◆箭弓稲荷神社








◆中坂(仲坂)




「御府内備考」に、「中坂 は妻恋坂 と天神石坂 との間なれば呼名とすといふ」とある。
 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
 また、『新撰東京名所図会』には、「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり、中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来てとみあかるき世なりけり
町屋の人のその人の顔かお (釈 迢空(ちょうくう))



続く。

2018/04/12 湯島散歩 04 湯島天神/復興地蔵尊/湯島聖典心城院/湯島2丁目児童遊園/切通坂

前の日記の「中坂」をあがって、少し進んだ所に湯島天神がある。
湯島天神の周辺を散策した。



湯島天神




筆塚



新派碑



瓦斯燈




講談高座発祥の地



筆塚(泉鏡花


宝物殿



夫婦坂



男坂



女坂





◆復興地蔵尊

湯島天神男坂」を降りたところにあった。






◆湯島聖典心城院





弁財天「放生池(ほうしょういけ)」





水琴窟



柳の井



境内社

なんの神様かなのかはわからなかった。




◆湯島2丁目児童遊園




切通

説明板は、湯島天神の夫婦坂を降りたところにあった。




 『御府内備考』には「切通(きりどおし)は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端(いけのはた)、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
 初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
 映画の主題歌「湯島の白梅(しらうめ)」"青い瓦斯灯(ガストウ)境内を出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。
 また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
    二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 務めなればかな
        石川啄木



続く。

2018/04/12 湯島散歩 05 石川啄木歌碑/本富士警察署/本郷消防署/五社稲荷神社/富士浅間大神/旧本富士町

湯島天神の周辺を散策した後は西へ向かう。



石川啄木 歌碑

湯島天神の夫婦坂をおりたところから切通坂を少し上がったところにあった。




 この歌は、石川啄木(1886 〜 1912)の明治四十三年(1910)の作で、『悲しき玩具』に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。
当時啄木は、旧弓町の喜之床(きのとこ)(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。
夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。
喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。
文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家 "喜之床" が、この三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。



本富士警察署

悪いことをしたわけではありません(w




◆本郷消防署




◆五社稲荷神社








◆富士浅間大神

工事中だった。
職人さんが声をかけてくれて、18日に完成するのでそのあとにいらっしゃいとのことでした。
もうからないんだけど、好きだからこの仕事をしてるって言っていた。
いいなあ。



旧本富士町

 元和(1615〜24)のころ、この地は加賀藩主前田利常(としつね)に賜った。その御加賀屋敷の東部は富山・大聖寺(たいしょじ)両支藩の屋敷になった。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。のち大部分が東京大学の校地となった。
 明治5年、町名を本富士町とした。駒込富士神社が元ここにあったからである。






◆旧本富士町



徳川家康の江戸入り後、この地を藤堂高虎(とうどうたかとら)に賜り、後元和の頃(1615〜24)加賀藩主前田利常に賜った。
 その後、加賀屋敷の東部を富山・大聖寺の両前田支藩の屋敷とした。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。明治5年、初めて町名を本富士町とした。
 町内の大部分は東京大g区の構内である。加賀屋敷の遺跡は、現在三四郎池(旧前田家の庭園行徳園(いくとくえん)の心字池)と赤門(御守殿門)などがある。
 ”加賀門をも一つつけるご注文”(古川柳)
 赤門は家斉将軍の娘溶姫(やすひめ)が、前田成泰(なりやす)に嫁入りしたときに造られた。



続く。

2018/04/12 湯島散歩 06 本郷薬師/桜木神社/十一面観世音菩薩/見返り坂/傘谷坂/横見坂

本郷薬師〜見返り坂エリアを散策した後は、一気に御茶ノ水駅まで南下。
途中坂がいっぱいあるエリアに入る。



◆本郷薬師








◆桜木神社





稲荷神社




鳥居




◆十一面観世音菩薩






◆見返り坂




「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432〜86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。




◆傘谷(からかさだに)坂




 傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改撰江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
 金助町に生まれた歌人・岡麓(おかふもと)は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
"あさはかに 家居(いえい)移しし 悔心(くいごころ) このやけあとに 立ちて嘆(なげ)かゆ。"とよんだ。




◆横見坂



『御府内備考』に
 「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた、この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書状』には、百数十軒の麹屋が数えられている。




この後は前にも言った「清水坂」などを通って御茶ノ水駅へ。
電車で帰宅した。