2019/01/09 上野散歩 02 国立博物館「高御座と御帳台」特別公開

上野散歩のいちばんの目当てはコチラだった。
国立博物館自体が初訪問だった!
今度からは企画展などチェックしようと思う。




見学の列に並んだら50分待ち・・・・。
新聞読みながら待つ。



高御座/御帳台

手前が高御座、奥が御帳台。



高御座



御帳台



反対側




高御座・御帳台
高御座は、古代より、天皇の即位の儀式に御座として用いられてきた調度品です、御帳台は、近代以移、皇后の御座として、即位の儀式に用いられるようになったものです。現在の高御座と御帳台は大正天皇即位に際して制作されたもので、京都御所の紫宸殿(ししんでん)に置かれていますが、今回は平成度と同様に皇居の宮殿において用いられました。
 高御座は、朱塗りの高欄をめぐらせた黒漆塗りの方形の継壇(つぎだん)を基礎とし、八角形の床板を2弾に重ね、8本の円柱が八角形の蓋(きぬがさ)(屋根)を支えるつくりになっています。蓋の頂上の路盤(ろばん)には大鳳1羽を、蓋の各角の蕨手(わらびて)には小鳳8羽を、すなわち大小合わせて9羽の鳳凰の像を載せています。そして全体にわたって、白玉(はくぎょく)を嵌入(かんにゅう)した華形、銀鍍金(ぎんめっき)の鏡光(きょうこう)、瓔珞(ようらく)、その他の飾り金具で装飾されています。内部には御倚子(ごいし)があり、その左右に剣璽(けんじ)と国璽(こくじ)及び御璽(ぎょじ)を置く案(あん)(小卓)があります。御帳台は、高御座の隣に置かれます。御帳台とほぼ同じですが、蓋には鸞(らん)という瑞鳥(ずいちょう)の像を飾り、また高御座委に比べると少し小ぶりになっています。

<パンフレットより>




即位礼正伝の儀の際の写真展示














即位礼正伝の儀における服装

 即位礼正股の儀では、宮殿の正殿松の間において、天皇陛下は御束帯(黄櫨染御袍(こうらぞめのごほう))に御立纓(ごりゅうえい)の御冠(おんかんむり)をお召しになって御笏(えいしゃく)をお持ちになり、皇后陛下は御五衣(おんいつつきぬ)・御唐衣(おんからきぬ)・御裳(おんえ)をお召しになって御槍扇(おんひおうぎ)をお持ちになりました。皇嗣殿下は束帯(黄丹袍(おうにのほう))に帯剣され垂纓(すいえい)の冠をお召しになり、常陸宮殿下は燕尾服をお召しになり大勲位菊花大綬章を佩用(はいよう)しました。女性皇族は五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)・裳(も)をお召しになりました。
 晴儀の場合、宮殿中庭には、帯剣し弓を持った威儀(いぎ)の者が左右各10名、太刀・弓・胡鎌(やなぐい)・桙(ほこ)・楯を捧持する威儀物捧持者がそれぞれ4名ずつ左右各20名、鉦(しょう)と鼓(こ)を受け持つ司鉦司鼓(ししょうしこ)が左右各1名と鉦鼓(しょうこ)の係員が左右各6名、帯剣し弓を持った衛門が左右各2名、合計78名の者が並ぶところ、今回は雨儀のため、宮殿内の回廊の西側と豊明殿南廊下の西側に、威儀の者が各2名、威儀物捧持者がそれぞれ1名ずつ各5名、豊明殿南廊下の東側に、司鉦司鼓が1名と鉦鼓の係員が6名、波の間及び北の間に、衛門が各2名、合計25名の者が並びました。これらの者は、いずれも束帯姿で、威儀の者・鉦鼓の係員・衛門は武官の装束を、威儀物捧持者・司鉦司鼓は文官の装束を着けました。威儀の者は、黒と緋(ひ)の闕腋袍(けってきのほう)にそれぞれ巻纓蒄(けんえいのかんむり)と緌(おいかけ)を着けました。威儀物捧持者は、太刀が黒の縫腋袍(ほうえきのほう)、弓と籙胡籙が緋の縫腋袍、桙と楯の捧持者は縹(はなだ)(薄い藍色)の縫腋袍に、それぞれ垂纓冠(すいえいのかんむり)を着けました。司鉦司鼓は、緋の縫腋袍に垂纓冠を、鉦鼓の係員は、縹の開闕腋袍に細纓冠(さいえいのかんむり)と綾を着け、衛門は、縹の闕腋袍に巻纓冠と緌を着けました。











装飾が細かくてすごいね・・・。
人が居なかったら細部をゆっくり見てみたかった。
普段は京都御所紫宸殿に常設されているとのこと。
中には「後で壊しちゃうなんてもったいないねぇ」とかとんでもないことを言っている人が居た。
大嘗宮と勘違いしているんだろうね。
国立博物館では1月19日まで公開しているとのこと。

2020/01/09 上野散歩 01 鶯谷駅/新坂/寛永寺/国立博物館/上野駅

残業1時間あったため、25時間勤務アケで、鶯谷から国立博物館「高御座」見学後、上野へ。
何もなければイロイロ見て回りたかったのだが、14時から健康診断だったため、早めに切り上げた。



鶯谷

スタートの鶯谷駅。
国立博物館は上野でも鶯谷でも時間が変わらないので、鶯谷スタートにした。



◆新坂



 明治になって、新しく作られた坂である。それで,新坂という。明治十一年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。



寛永寺

右側塀の向こうが寛永寺
2019/02/08に散歩した場所。
2019/02/08 上野散歩 08 真如院/林光院/旧東京音楽学校奏楽堂/旧因州池田屋敷表門/寛永寺 02/両大師橋 - ovanの社会科見学



国立博物館

情報量が多いので次の日記で。



上野駅

ゴールの上野駅
「visit ほっと zoo」が始まっているので上野動物園に行きたかったのだが、健康診断に向かう。
天気も良く、暖かかったのにもったいないなあ・・・・・。

2020/01/07 豪徳寺散歩 04 上町天祖神社/世田谷代官屋敷/長久保薬局/稲荷神社/浄光寺/弦巻神社/桜新町

代官屋敷周辺はこのまえボロ市のときに訪れた場所。
2019/12/15 03 世田谷ボロ市寄り道 世田谷駅/ボロ市/円光院/櫻小学発祥之寺/世田谷代官屋敷/上町駅/下高井戸駅 - ovanの社会科見学


代官屋敷の裏に「世田谷区立郷土資料館」があるが、ここも以前訪れたことがある。
今回は入らなかった。
2016/04/20 part1 世田谷区立郷土資料館 - ovanの社会科見学




◆上町天祖神社


世田谷天祖神社前広場

境内の一部が公園になっていた。


鳥居



参道入口




◆世田谷代官屋敷


主屋






土蔵等







 江戶時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。 この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
 大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正一八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永一〇年(1633)、井伊家が世田谷領一五箇村(後に二〇箇村)を拝領Lた際に、代官に起用されました。以後、明治四年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治Lてきました。
 屋敷は江户中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約七○坪231.4㎡)、茅葺さの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡など
の一部が今も現存し、往時の代官屋敷の面影を伝元ています。






長久保薬局

出桁造り(だしけたづくり)の建物だということだが、僕にはよくわからない。
『ハイウルソ』という薬も初めてだなあ。
胃薬らしい。
閉店してだいぶ経つようだ。



◆稲荷神社




◆浄光寺


観音堂


山門



◆弦巻神社



弦巻神社は三柱が合祀されております
古えの弦巻の各村落にはそれぞれ、村人が崇敬し祭った社がありました
「新編武蔵国風土起稿」(天保元年刊行)に、「それぞれ小さな祠で、村民の持ちである。 そのはじまりは、年月不詳である。」と記されております
明治四十一年の小社合祀の法により現在地に祀られていた稲荷社に向天神社(弦巻一|一)と八幡社(弦巻四-三十三)を併せ、弦巻神社として大正五年十一月十五日遷祭を営修し、弦卷の地を鎮め守る氏神として、弦卷在住の皆様の崇敬をいただいております。


境内社

とても小さい。






桜新町

ゴールの東急田園都市線桜新町駅

弦巻神社からは北上して経堂駅にっ向かう予定だったが、雨が降ってきたのでそのまま南下。
とても冷たい雨だった・・・・。
桜新町から電車で渋谷を経由して帰った。

2020/01/07 豪徳寺散歩 03 世田谷区役所/くじら公園/世田谷1号踏切/世田谷駅/世田谷2号踏切/上町銀座

世田谷区役所は、おそらく初めて訪れた場所だね。
そこからは南へ進み、東急世田谷線を渡る。


◆世田谷区役所




◆くじら公園



くじらさんが居た。




◆世田谷1号踏切





すぐ隣に東急世田谷線世田谷駅がある。





◆世田谷駅

東急世田谷線、世田谷駅。



◆世田谷2号踏切





◆上町銀座




続く。

2020/01/07 豪徳寺散歩 02 世田谷城址公園/稲荷下橋/豪徳寺稲荷下橋公園/松本水車跡/世田谷保健所/くぬぎ公園(庚申塔)

まだまだ東へ進む。
くぬぎ公園からは南に向かう。


◆世田谷城址公園



 世田谷城の南東端の郭(くるわ)を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。

「周辺史跡等案内」
国史彦根藩主井伊家墓所(豪徳寺二丁目豪徳寺内)
 豪徳寺の前身は弘徳院と称し、万治2年(1659)に没した彦根藩井伊直孝の善提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
 その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
 北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。

②区史跡 吉良氏墓所(桜一丁目 勝光院内)
 勝光院は、天正元年(1573)、吉良氏朝が父頼康の善提のため、吉良治家が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされ、以後代々の菩提寺となっています。
 墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義只以降、代々の墓が置かれています。

世田谷八幡宮(宮坂一丁目)
 天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、 世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたともいわれています。

④国重要文化財大場家住宅主屋及び表門(都史跡世田谷代官屋敷)(世田谷一丁目)
 江戸時代、彦根藩世田谷領20カ村の代官職を務めた大場家の住宅で、敷地内には世田谷区立郷土資料館があります。




世田谷城址

ここが一番高いところ・・・かな?



 世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西·南·東の三面に鳥山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半 に吉良治家が居住したのに始まると伝える。
 吉良氏は清和源氏·足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後半に関東が乱れると関東管領·上杉氏やその家宰·太田道藩に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄三年(1530) には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この問、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庭護下にあったが、天正十八年 (1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
 世田谷城の濠·土塁の構造は天文六年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。



土塁





◆稲荷下橋

烏山川緑道の橋。






豪徳寺稲荷下橋公園

烏山川緑道側の床に、タイルが張られている。

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◆松本水車跡

上記、豪徳寺稲荷下橋公園のすぐ近く。
説明板などは何もなかった。




◆世田谷保健所





◆くぬぎ公園


庚申塔

公園内に庚申塔があった。



続く。

2020/01/07 豪徳寺散歩 01 経堂駅/庚申塔/世田谷八幡宮/宮の坂駅/宮の坂1号踏切/豪徳寺

24時間勤務アケで経堂から豪徳寺経由で桜新町まで散歩。
桜新町まで行かずに途中で経堂駅に西側経路で戻ろうと思っていたのだが、雨が降ってきてしまった・・・。


この日記のエリアは経堂駅から南東に向かい、東急世田谷線沿いを歩く。
一部は2016/04/20に来ている場所だ。
2016/04/20 part3 世田谷観光(勝光院、世田谷八幡、厳島神、宮の坂、豪徳寺) - ovanの社会科見学
宮の坂駅からは東へ進む。



◆経堂駅

スタートの小田急線経堂駅。






庚申塔





世田谷八幡宮




 世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天皇の覚治五年 (1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦戦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087~94)の頃です 義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待 ため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚くもつ義家は、今度の勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、 豊前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申し上げ盛大なる 勧請報賽・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事 は有名であり、現在でも奉納神事として伝えられています。
 その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社八幡宮建立大壇那源朝臣頼貞。天文十五年丙午八月二十日建立、十二月二十日癸卵御選宮」とあり、 百五代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、また この時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(二尺三寸)一振を寄進したと 云われています。
 このように当社八幡様は吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場 家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東討伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に減んでしまいました。
 その翌年の天正十九年(1591)には江戸城に入城した徳制家康も、源氏の出身でありその氏神八情神を崇敬し、当社に社領として十一石を寄進しました。以来徳川家代々の将軍は朱印地として社領十一石を寄進する習わしとなりました。
 明治維新後の八幡様は、明治五年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。
 昭和団十九年五月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人違に厚く信仰されています。


楽殿


力石




世田谷招魂社




高良(こうら)神社




土俵




厳島神社










境内社

上記、厳島神社の池の真ん中にあった社。
弁天様であろうか?


案内図



鳥居1



鳥居2






宮の坂駅

東急世田谷線宮の坂駅。古い電車が展示されていた。






宮の坂1号踏切




すぐ隣が宮の坂駅



豪徳寺



 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(1584)中興開山門奄宗関(高輪泉岳寺の開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
 寛永十年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修埋菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
 境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝靡印塔が残されている。



松福庵(招福庵)




松福庵(招福庵)脇の招き猫



松福庵門



三重塔




鐘楼



 本焼鐘は、延宝七年に完成の後、今日ま で移動なく当寺に伝えられてきた。
 形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い楚鐘といえる。
 制作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。
 本焼鐘は、この時期の楚鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる楚鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。



仏殿

今回写真が無かった!!
なんで???
ということで2016年4月20日に撮った写真。




 豪徳寺仏殿は、寬文から延宝年間(1661~1680)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的建造物である。棟札によると、延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝長女) の弟で藩主直澄が早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道・工匠星野市左衛門尉積則らが当たった。
 仏殿には江戸時代前期から日本にもたらされた黄檗宗(おうばくしゅう)の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に正面と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。吹き放ちの裳階(もこし)(下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、特に板状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鲜の建築には良く使われるものであり、日本ではあまり一般的ではない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものであることから、区有形文化財に指定された。



豪徳寺仏殿像 五軀

木造大権修利菩薩筒像
木造弥勤菩薩坐像
木造釈迦如来坐像
木造阿弥陀如来坐像
木造達磨大師坐像

 本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(1677一六七七)、井伊直孝の娘 掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲(らくようぶっこうしょううん)」に、五軀一具として造らせたものであることがわかる。
 祥雲は黄檗宗(おうばくしゅう)の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(しょううんげんけい)(1648~1719)のことである。
 当時仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄葉僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲が推挙されたものと考えられる。
 本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。




井伊直弼

こちらは今回写真を撮っていなかったのでまた2016年4月20日の写真。



こちらも2016年4月20日の写真。

 井伊直弼 (1815~60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政五年(1858)四月大老にある。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ヶ国情雨役に調印。また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危機にさらされ、遂に安政七年三月、江戸城桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
 世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺 に埋葬された。
 墓石の高さは三四二センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎柳暁覚翁大居士」とある。




地蔵堂

工事中



山門



続く。

2019/01/05 等々力散歩 08 東京都水道局調布取水所/東急線多摩川橋梁/多摩川浅間神社/多摩川1号踏切/多摩川駅

やっぱり多摩川北側を東へ進む。
いつの間にか大田区になっていた。
いよいよ世田谷散歩も終盤になってきた。



◆東京都水道局調布取水所

かつてはコチラで多摩川の水を取水。
現在多摩川台公園となっている場所で、浄水して大田区の一部に送水していたとのこと。



東急線多摩川橋




多摩川浅間神社



境内社

左から、阿夫利神社三峰神社、稲荷神社、小御嶽神社




境内社・石碑
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石碑には小御嶽石尊とあるが、祠の方には何が祀られているのかわからない。



楽殿



鳥居1


鳥居2



境内からの眺め

東急線多摩川橋梁方向。



丸子橋方向。



多摩川1号踏切






多摩川駅



ゴールの東急電鉄東横線目黒線東急多摩川線多摩川駅」。
今回の散歩は寄付が多いところばっかりだったので、駅に着いた頃にはヘロヘロ。
気温も低かったはずなのにコート要らないくらい体があったまった(w
多摩川駅の商店街を少し見ていこうと思ったが断念した。

この後、渋谷で乗り換えたくないので蒲田に行こうと思ったが、結局渋谷に行った。
渋谷は乗り換えが複雑なうえに人が多いから嫌なんだよなあ・・・・。