2021/01/07 赤塚散歩 06 庚申塔(赤塚1)/元赤塚地蔵尊/庚申塔/中田出世稲荷神社/梶山児童遊園/東第49号踏切道/下赤塚駅

東武東上線下赤塚駅まで南下。
地下鉄赤塚駅から帰ろうと思っていたのだが、もうちょっと歩くことにした。



庚申塔(赤塚1)







◆元赤塚地蔵尊








庚申塔







◆中田出世稲荷神社


楽殿








◆梶山児童遊園







◆東第49号踏切道









下赤塚駅







続く。

2021/01/07 赤塚散歩 05 都営赤塚六丁目アパート/社/岩の湯/庚申塔(赤塚2)/ふれあい公園/榛名神社/祠/赤塚銀座会

前の日記しのがやと公園からかなり効率悪く南下。
区画が整理されてないんだろうね。
同じところを行ったり来たり・・・。




◆都営赤塚六丁目アパート







◆社

加藤筆吉翁之碑
「加藤筆吉」で検索したが出てこなかった・・・。



ここに社があったとgoogle mapの口コミに書いてあった。
完全に更地だね・・・。







◆岩の湯

銭湯♪







庚申塔(赤塚2)







◆ふれあい公園






榛名神社

中へ入れなかったので外からお参り。







◆祠

何が祀られているのかはわからなかった。







◆赤塚銀座会

商店街♪









続く。

2021/01/07 赤塚散歩 04 板橋区№41遺跡(荒塚)/松月院大堂/赤塚八幡神社/泉福寺/庚申塔(赤塚5)/板橋区赤塚支所/赤塚しのがやと公園

板橋区№41遺跡(荒塚)からは細い路地を南西へ向かう。



板橋区№41遺跡(荒塚)


乳房榎の由来

判読不能な箇所が多いため文字化を断念。
怪談乳房榎(かいだんちぶさえのき)は、三遊亭圓朝によって創作された怪談噺である。新聞連載後、明治21年1888年)に出版された。舞台化・映像化されている。 』
『絵師として活躍していた菱川重信の妻・おきせに惚れてしまった磯貝浪江という浪人は、重信の弟子となっておきせに近づき、関係を持たないと子供を殺すと脅迫し、おきせと関係を持ってしまう。それだけでは飽き足らない浪江はおきせを独占するため、師を惨殺する。夫の死のショックで乳の出なくなったおきせの元に、死んだ重信の亡霊が現れ、乳を出す不思議な榎が松月院にあると教え、やがてその榎の乳で育った子・真与太郎は父を殺した浪江を討ち仇を取る。 』
怪談乳房榎 - Wikipedia


乳房榎記念碑








松月院大堂



 本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90cmの木像で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
 また、堂前の梵鐘は暦應三(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)も撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
 鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四(1561)年上杉謙信による小田原攻めの時兵火のかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。



 この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂にことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝建武・延元の頃(1334~40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄四年(1561)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われる(注釈、その大堂が上杉謙信に焼かれたとき、火の中から本尊阿弥陀如来が出現し、八幡社傍らの古木に止まった、という記述が見られます)。 ちなみに大堂のあるこの丘は、実は古墳といわれています。
  文化十一年(1814)二月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御丈弐尺四寸五分ばかりと覚ゆ」と紀行文『遊歴雑記』に書いている。  
 東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
 南北朝の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像はともに有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったと言われている。


先客


鐘楼









◆赤塚八幡神社



 八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)です。ご神体として木像の騎上八幡が 安置されていたと伝えられています。 創建年代は不詳ですが、暦応三年(1340) に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には 既に創建されていたものと思われます。また、荒 川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座し たとの伝承も伝わります。
 当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、 「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して 止る処と云」と、永禄四年(1561)、長尾景虎 (上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた 折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
 特殊神事として、毎年三月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和五十八年度板橋区指定無形民俗文化財) が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞い歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。


境内社



鳥居


参道

左が松月院大堂、右が八幡神社








◆泉福寺



 御本尊は不動明王、宗派は真言宗智山派崇福山泉福寺と号す。
 開山は不明ですが、大堂にある歴応三年(1340)四月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があるので、鎌倉時代には創建されていたと思われます。その後の寺暦については不明ですが、明治五年(1872)の「新義真言宗本末一派寺院明細帳」に「第47世住職英尊」とあり、明治初年まで47人の住職を数えたことがわかります。
 明治九年六月二十九日には、公立の下赤塚学校がある本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺にあった石成学校と合併して明治二十四年十月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年間、ここで授業が行われていました。
 本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681)七月に下赤塚村の名主春日伊兵衛が寄進したもので、平成三年度板橋区の指定文化財となりました。
 境内には、鎌倉時代から室町時代までの板碑が十六基立ち並んでいます。なお、本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第23番札所となっています。


板碑


石塔









庚申塔(赤塚5)









板橋区赤塚支所








◆赤塚しのがやと公園



 赤塚六丁目付近は、かつて「篠ケ谷戸(しのがやと)」と呼ばれる湿地帯でした。この公園のあたりは「前谷津川(まえやつがわ)」という小河川が流れており、一帯が「谷戸(谷状に切れ込んだ地形)」になつていました。そこに 「篠竹(しのたけ)(茎の細い竹の類)」が茂つていたことから篠竹の生えた谷戸という意味で「篠ヶ谷戸」という地名になったようです。
 前谷津川は、周辺の湧き水を水源とした清流で、 昭和初期頃まで生活用水や両岸に広がる水田の用水に使われるなど人々の生活になくてはならないものでした。
 こうした地域の歴史を後世に伝える手がかりと して、この公園に「しのがやと」という名前を残しました。









続く。

2021/01/07 赤塚散歩 03 薬師堂/庚申塔(赤塚5)/赤塚不動の滝/赤塚不動の滝公園/乗蓮寺/庚申塔(赤塚5)/松月院

赤塚公園南側を東京大仏通りに沿って南東へ進む。



◆薬師堂









庚申塔(赤塚5)








◆赤塚不動の滝



こちらも以前来たことがある。
2016/02/07 part3 赤塚城址、不動の滝、赤塚溜池園 散策 - ovanの社会科見学


石塔



 かつて、板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧き、人々の生活にうるおいを与えていました。
 この滝もその一つです。山岳信仰が盛んになった 江戸時代の中頃からは、地元の人たちが富士山や大山(現神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、 身を清める「みそぎ」場として使われていました。 昔は、滝つぼの前に垢離堂(こりどう)(みそぎをする施設)が設けられていたそうです。 また、この滝の上には、あたがも守護神のように不動明王の石像が二体まつられています。
 この滝水は、いかなる時でも涸れることはないと伝えられていますが、周辺の宅地開発に伴い水量は減少しています。それでも、自然の豊かだった時代 をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られています。
 平成十四年度に東京都の名湧水57選に選定されました。







◆赤塚不動の滝公園








乗蓮寺



 御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院(せきちょうさんけいがくいん)と称しています。応永年間(1394~1428)に了賢無的(りょうけんむてき)が山中村(現仲町専称院の地)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。
 天正十九年(1591)に徳川家康から10石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保三年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となりました。
 高速道路の建設にともなう国道17号線の拡幅工事により、昭和四十六年から7年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に転載戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。
 境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。


東京大仏



 この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正譽隆道(しょうよりゅうどう)が、昭和四十九年八十八才にて発願、完成まで約三年の歳月と延べ三千五百人の手によって昭和五十二年四月完成をみました。
 千葉氏の居城であったここ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられております。
 奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です。
 合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。

 材質 青銅(ブロンズ)製
 重量 32t
 座高 8.2m(頭部 3m)
 蓮台 2.3m
 基壇 地上2m、地下1m


福寿観音


鐘楼


七福神


天保飢饉の供養塔



 天保の飢饉は、享保天明の両飢饉と並び江戸時代3大飢饉の1つに数えられています。天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(生き倒れ)が出ました。
 幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の4宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。
 この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。
 昭和六十一年度に板橋区文化財(歴史資料)に登録されました。


説経浄瑠璃五代目若太夫



 これは、「説経浄瑠璃」五代目家元若太夫・本名諏訪 仙之助[文化八年(1811)〜明治十年(1877)] の墓石です。
 「説経浄瑠璃」は、仏教布教の一手段である「節談説経」から派生し、寛永年間(1624~44)頃からは 三味線を伴奏とした「語り物」として流行しました。一時は衰えましたが、寛政年間(1789~1801)頃に、 米商人とされる初代薩摩若太夫によって再興されました。 その五代目に当たるのが、下板橋宿中宿に居住するとともに同地を拠点として活躍した五代目若太夫です。
 若太夫は、最盛期には多摩地域や埼玉県域に五十八人もの弟子を抱えていたとされ、「説経節史上の功績者」 とも評されています。現在、都指定無形文化財(芸能) である三代目若松若太夫(小峰孝男)と、その師匠二代 目若松若太夫(故・松崎寛)の芸能上の祖に当たります。 五代目若太夫は没後、旧下板橋宿にあった浄土宗乗蓮寺に葬られましたが、昭和四十六年からの乗蓮寺の赤塚移転にともない、墓石も当地に移設されました。
 蓮華の上に六角柱という珍しい形状の墓石には、「恵生芳願信士」という若太夫の戒名と辞世の句「何所となく 行先広し 穐(あき)の風」、さらには妻ゑんの戒名、娘千代、孫はつ、古石という人物による追悼の句がそれぞれ の面に刻まれています。
 当墓石は、下板橋宿を拠点としていた若太夫の活動に よって、「説経浄瑠璃」が幕末維新期に周辺地域へと伝播していく状況を裏付ける重要な歴史資料であるということから、平成二十二年度に区の登録有形文化財となりました。


板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)



  板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、「寛永諸家系図伝」によると天正年間(16世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
  忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代に旗本板橋氏は浄土寺菩提寺としています。
  その中で、文禄二年(1593)十一月二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋にあった乗蓮寺菩提寺としています。
  寛政四年(1792)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。
  なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(1860)に十三代の板橋政道が奉納したものです。
  平成十年に区登録有形文化財となりました。 


鉄拐仙人

李鉄拐(り てっかい)は、中国の代表的な仙人である八仙の一人。鉄拐李とも呼ばれる。
名は玄、凝陽、洪水、岳など諸説ある。
鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。 』
李鉄拐 - Wikipedia


赤塚城二の丸跡


閻魔堂


山門








庚申塔(赤塚5)









松月院



 延徳四(1492)年、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側の墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。
 また、天正十九(1591)年、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これに習って歴代将軍が下付した朱印状が寺宝として秘蔵されている。
 天保十二(1841)年、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行ったが、その前夜、当時を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。


松月院のヒイラギ



 樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約10m。目通り、約270cm。樹齢、約100年(推定)。
  ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺に指し、鬼の進入を防ぐという風習は最近まで見られる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長過程を象徴するとの説話も残る。
  松月院のヒイラギは、上部の樹幹の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
  平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。


鐘楼


高島秋帆先生紀功碑



 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院 に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。
 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。


稲荷社



山門







続く。

2021/01/07 赤塚散歩 02 板橋区立郷土資料館


だいぶ前に来たことがある。
調べたら2016年だった。
懐かしい・・・・。



展示スペースはそれほど広くないが、各時代ををしっかり勉強することができた。



企画展示



貴重なカメラを見ることができた。
1.2の企画展も見たかったなあ。



屋外展示(旧田中家住宅)






 この民家は江戸時代後期(推定)に建てられたもので、関東地方の民家として典型的ないわゆる「田の字型」の形式をとっている。
 敷地は、現在緑道となっている旧前谷津川を南に見下ろす日当りの良い緩斜面であり、住むにも農作業にも最適の場所だった。

 日本の民家の間取りは、図のように変遷してきたと考えられる。
 ここに移築した民家は江戸時代後期(推定)に建てられた旧田中茂雄氏宅であり、テイ(表座敷)12畳半。ザシキ(奥座敷)10畳。板張のオカッテ(お勝手)、そしてヘヤと呼ばれたナンド(納戸)の4部屋が田の字型に配置されている。
 昭和の初期までランプと火鉢の生活であり、押入れなどもない簡素な暮らしだった。またさらに以前は、畳もザシキだけに敷くものだった。
 神棚と仏壇、大黒柱などの位置もよく観察し、今の住宅との違いを考えてみたい。



 旧田中家住宅は、板橋区有形文化財に登録されており、建物は江戸時代の典型的な茅葺を施した農家建築として、その外観は、かつての武蔵野の面影を残す貴重な景観資源であることから、板橋区景観計画における景観重要建造物に指定されています。


古民家ー母屋、納屋、井戸小屋



◆古民家
 昭和四十六年に徳丸五丁目の田中茂雄氏から寄贈されたもので、屋根は茅葺きの寄せ棟造りで、内部は土間と四つ間取りの部屋がある関東地方では代表的な造りの農家建築です。
 建築時期は江戸時代後期のものと推定されますが、移築されるまでのおよそ百年間に改築が行われ、 建てられた当時のものではありません。 ◆納屋
 昭和四十七年に蓮根二丁目の中村辰三氏から寄贈 されたもので、切り妻・瓦葺きで一階の床が板張りとなっていました。
◆井戸小屋
 昭和四十八年に大門の須田新次氏から寄贈されもので、このような「つるべ井戸」は、庭の東隅に 掘られることが多かったようです。


漬物樽(つけものだる=とうご)



 沢庵漬け用の大樽である。板橋区練馬区は、江戸時代から練馬大根の生産地として有名で、大半は漬物として年間を通じて重宝された。ここにある木製の漬物用大樽は、板橋区大門の漬物商が使用していたもので、別名「とうご」と呼んでいる。この樽で大根4千本以上が入る。
 このような大樽は、最初酒造用に用いられ、次に味噌・醤油と経て、最後が漬物用となった。100年間は持つといわれ、ときどき竹製のタガを取り替えた。樽の値段は、昭和10年代で新品200円、昭和40年頃の中古のでは5〜10万円であったという。


石造文化財



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 当館の中庭には、この後ろと左手の植え込み内に、庚申塔(こうしんとう) 三基と、馬頭観音(ばとうかんのん)、不動明王(ふどうみょうおう)、石燈籠 (いしどうろう)、狂歌碑(きょうかひ)、狛犬(こまいぬ)、種類不明各一基 の、合計九基の石造文化財があります。
庚申塔
 庚申塔庚申信仰の庚申待(こうしんまち)・庚申講(こうしんこう)によって造立された石造物です。
 康申信仰とは、人の体内にはみな三尸(さんし)という三匹の虫がいて、毎日 宿っている人の罪や過ちを観察し、庚申の日(六十日に一回まわってきます) に人が眠ると、三尸が人の体内から抜け出して天帝に宿っていた人の罪過を報告し、それによって天帝がその人の寿命を削ると考えられた信仰です。
 そこで、庚申の日の夜に人々が集まり、三尸が体内から抜け出さないよう に、お祈りや飲食をともにして徹夜をするという風習がありました。この集まりが庚申待・庚申講です。
 板橋区では、平成十六年時点で確認できた区内所在一九四基を、同年度区 の文化財として登録しました。
◆石製馬頭観音
 馬頭観音六観音の一つで、慈悲(じひ)を本誓(ほんぜい)とする菩薩(ぼさつ)であるにもかかわらず、この観音像だけは常に恐ろしげな表情をし、 頭上に馬の頭をつけています。 この観音は動物や畜生道(ちくしょうどう)に苦しむものを擁護(ようご)するとされ、また馬頭を持つところから、江戸時代以降馬の守り仏とされるようになり、大量の路傍の石仏が造立されました。
 板橋区では、平成十八年時点で確認できた区内所在五三基を、同年度区の 文化財として登録しました。
◆石製不動明王
 不動明王大日如来の忿怒像(ふんぬぞう)として、種々の煩悩(ぼんのう) を焼き尽くし、悪魔を降伏させ、行者(ぎょうじゃ)を擁護して菩提を得させる明王として信仰されました。
 板橋橋区では、平成十八年時点で確認できた区内所在二〇基を、同年区の文化財として登録しました。


大砲

エントランス前に展示されていた大砲。
以前来た時に何でここにあるのか聞いたら川口(鋳物で有名)から運ばれたもので経緯などはわからないって言っていた。


新藤楼玄関



江戸時代中山道第一の宿場として栄えていた板橋宿は、明治16年の鉄道開通、同17年の火災により次第にさびれていった。そのため、宿場の旅龍業者は再起策の一つとして明治19年に建てられた北農島郡役所(板橋3丁目)周辺に移り、旅館業というよりは、実態を遊廓に変え営業を開始した。
 この建造物は、板橋遊廓中最大の規模を誇った新藤楼の玄関で、寺社建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。区内では残り少なくなった明治期の建造物として貴重であるばかりでなく、板橋宿の旅籠の変貌を伝える資料でもある。
 現在地へは昭和49年に移築したが、長い間の風雪により痛みがひどくなったため平成4年に保存修復工事を行った。





前回来た時の日記↓
2016/02/07 part1 板橋区立郷土資料館 - ovanの社会科見学


HPはこちら↓
板橋区立郷土資料館


場所はこちら↓


休館日
『毎週月曜日(祝日の場合は翌日休館)/年末年始』
と、ありましたが、行かれる方は事前にHPなどチェックしてから行ってくださいね!







続く。

2021/01/07 赤塚散歩 01 新高島平駅/新高島平前歩道橋/首都高速5号池袋線/赤塚公園・城址

24時間勤務アケで、都営三田線新高島平駅から地下鉄赤塚駅経由で、東京メトロ平和台駅まで散歩。



新高島平駅周辺には史跡がなく、赤塚公園までかなり歩く。



新高島平駅

スタートの都営三田線新高島平駅









新高島平前歩道橋

下は高島通り。









首都高速5号池袋線




ここの構造がどうなっているのかよくわからないな・・・・。




オブジェなどがあったが、作品名がわからなかった。







◆赤塚溜池公園・赤塚城址




赤塚城跡



 下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤(これたね)兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。 
 寛正四年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。 
 その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院(ろくおういん)の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590)まで勢力をふるいました。 
 城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張(なわば)りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭(くるわ)、梅林の部分がニの郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかになっていません。



城址の梅林



 梅は春を告げる花です。
 ここ城址の梅林は梅畑であったものを農家から譲りうけ、平成7年6月から公園地として皆さんに親しんでいただいております。
 白加賀(シラカガ) バラ科 サクラ属
 花期は2月下旬~3月上旬
 中国が原産の梅は花を見るだけでなく果実も採れる実利の植物でもあります。
 毎年、公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらいその一部を近隣の福祉施設にもさしあげたいと考えています。
 毎年、子供たちが楽しみにしていますので梅の実には手を触れないよう、皆様のご協力をお願いいたします。
 梅一輪一輪ほどのあたたかさ 
            嵐雪


以前来たことがある。
2016/02/07 part3 赤塚城址、不動の滝、赤塚溜池園 散策 - ovanの社会科見学






続く。

2020/01/05 赤塚散歩 05 庚申塔(田柄2)/たがら公園/地下鉄赤塚駅前商店会/下赤塚駅南商店会/下赤塚駅/地下鉄赤塚駅

前のエリアから北上し、川越街道へ出る。
ちょうど東武下赤塚駅地下鉄赤塚駅のところだったので、少し散策して地下鉄で帰る。



庚申塔(田柄2)





◆たがら公園




地下鉄赤塚駅前商店会

商店街♪






下赤塚駅南商店会

商店街。
道路(川越街道)を挟んで商店街が二つある。
反対側が上記の「地下鉄赤塚駅前商店会」








下赤塚駅

東武東上線下赤塚駅







ゴールの東京メトロ地下鉄赤塚駅








かなり勾配があった。
最初の急階段でかなりやる気をなくす(w
でも、体が暖かくなったのでその後の散歩は苦にならなかった。
巡った神社はそれほど人がいなかった。
今年は初詣をずらすのではなく、やめた人の方が多いのかもね・・・。