2021/01/07 赤塚散歩 03 薬師堂/庚申塔(赤塚5)/赤塚不動の滝/赤塚不動の滝公園/乗蓮寺/庚申塔(赤塚5)/松月院

赤塚公園南側を東京大仏通りに沿って南東へ進む。



◆薬師堂









庚申塔(赤塚5)








◆赤塚不動の滝



こちらも以前来たことがある。
2016/02/07 part3 赤塚城址、不動の滝、赤塚溜池園 散策 - ovanの社会科見学


石塔



 かつて、板橋区内の崖下には、いたるところで水が湧き、人々の生活にうるおいを与えていました。
 この滝もその一つです。山岳信仰が盛んになった 江戸時代の中頃からは、地元の人たちが富士山や大山(現神奈川県伊勢原市)などの霊山に詣でる際に、 身を清める「みそぎ」場として使われていました。 昔は、滝つぼの前に垢離堂(こりどう)(みそぎをする施設)が設けられていたそうです。 また、この滝の上には、あたがも守護神のように不動明王の石像が二体まつられています。
 この滝水は、いかなる時でも涸れることはないと伝えられていますが、周辺の宅地開発に伴い水量は減少しています。それでも、自然の豊かだった時代 をほうふつさせる遺構として、いまも地元の人たちによって守られています。
 平成十四年度に東京都の名湧水57選に選定されました。







◆赤塚不動の滝公園








乗蓮寺



 御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院(せきちょうさんけいがくいん)と称しています。応永年間(1394~1428)に了賢無的(りょうけんむてき)が山中村(現仲町専称院の地)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。
 天正十九年(1591)に徳川家康から10石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保三年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となりました。
 高速道路の建設にともなう国道17号線の拡幅工事により、昭和四十六年から7年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に転載戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。
 境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。


東京大仏



 この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正譽隆道(しょうよりゅうどう)が、昭和四十九年八十八才にて発願、完成まで約三年の歳月と延べ三千五百人の手によって昭和五十二年四月完成をみました。
 千葉氏の居城であったここ赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられております。
 奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です。
 合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。

 材質 青銅(ブロンズ)製
 重量 32t
 座高 8.2m(頭部 3m)
 蓮台 2.3m
 基壇 地上2m、地下1m


福寿観音


鐘楼


七福神


天保飢饉の供養塔



 天保の飢饉は、享保天明の両飢饉と並び江戸時代3大飢饉の1つに数えられています。天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(生き倒れ)が出ました。
 幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の4宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。
 この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮譽上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれています。
 昭和六十一年度に板橋区文化財(歴史資料)に登録されました。


説経浄瑠璃五代目若太夫



 これは、「説経浄瑠璃」五代目家元若太夫・本名諏訪 仙之助[文化八年(1811)〜明治十年(1877)] の墓石です。
 「説経浄瑠璃」は、仏教布教の一手段である「節談説経」から派生し、寛永年間(1624~44)頃からは 三味線を伴奏とした「語り物」として流行しました。一時は衰えましたが、寛政年間(1789~1801)頃に、 米商人とされる初代薩摩若太夫によって再興されました。 その五代目に当たるのが、下板橋宿中宿に居住するとともに同地を拠点として活躍した五代目若太夫です。
 若太夫は、最盛期には多摩地域や埼玉県域に五十八人もの弟子を抱えていたとされ、「説経節史上の功績者」 とも評されています。現在、都指定無形文化財(芸能) である三代目若松若太夫(小峰孝男)と、その師匠二代 目若松若太夫(故・松崎寛)の芸能上の祖に当たります。 五代目若太夫は没後、旧下板橋宿にあった浄土宗乗蓮寺に葬られましたが、昭和四十六年からの乗蓮寺の赤塚移転にともない、墓石も当地に移設されました。
 蓮華の上に六角柱という珍しい形状の墓石には、「恵生芳願信士」という若太夫の戒名と辞世の句「何所となく 行先広し 穐(あき)の風」、さらには妻ゑんの戒名、娘千代、孫はつ、古石という人物による追悼の句がそれぞれ の面に刻まれています。
 当墓石は、下板橋宿を拠点としていた若太夫の活動に よって、「説経浄瑠璃」が幕末維新期に周辺地域へと伝播していく状況を裏付ける重要な歴史資料であるということから、平成二十二年度に区の登録有形文化財となりました。


板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)



  板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、「寛永諸家系図伝」によると天正年間(16世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
  忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代に旗本板橋氏は浄土寺菩提寺としています。
  その中で、文禄二年(1593)十一月二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋にあった乗蓮寺菩提寺としています。
  寛政四年(1792)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。
  なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(1860)に十三代の板橋政道が奉納したものです。
  平成十年に区登録有形文化財となりました。 


鉄拐仙人

李鉄拐(り てっかい)は、中国の代表的な仙人である八仙の一人。鉄拐李とも呼ばれる。
名は玄、凝陽、洪水、岳など諸説ある。
鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。 』
李鉄拐 - Wikipedia


赤塚城二の丸跡


閻魔堂


山門








庚申塔(赤塚5)









松月院



 延徳四(1492)年、千葉自胤(よりたね)はこの寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し自ら中興開基となった。開山堂には開基の位牌をまつり、本堂西側の墓地には自胤のほか比丘尼了雲の墓碑も建てられている。
 また、天正十九(1591)年、徳川家康は四十石の朱印地を当寺に寄進したが、これに習って歴代将軍が下付した朱印状が寺宝として秘蔵されている。
 天保十二(1841)年、長崎の人・高島秋帆は幕命により、徳丸ヶ原で洋式砲術の訓練を行ったが、その前夜、当時を本陣とした縁故で遺品類が保存され、顕彰碑も建てられている。


松月院のヒイラギ



 樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約10m。目通り、約270cm。樹齢、約100年(推定)。
  ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺に指し、鬼の進入を防ぐという風習は最近まで見られる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長過程を象徴するとの説話も残る。
  松月院のヒイラギは、上部の樹幹の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯を持っている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
  平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。


鐘楼


高島秋帆先生紀功碑



 この紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院 に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した、高島秋帆 を顕彰する目的で大正十一年十二月六日建立された記念碑である。
 高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術 を学んだ。天保十一年、中国清国と英国との間で阿片戦争 が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
 天保十二年五月七日〜九日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術調練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繋がれた。
 嘉永六年夏、十一年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝いりで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年正月江戸小早川にて六十九歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
 紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を砲身に火焔砲弾四発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。


稲荷社



山門







続く。