川越街道を超えて細い路地を南西へ進む。
旧上板橋宿概要図
川越街道は、江戸時代に川越道中・川越往還とも称し、川越と江戸を結ぶ幹線でした。また、中山道の脇往還としても利用され、信州や越後へも通じていました。この弥生町の旧道沿いは、宿(上板橋宿)と呼ばれ、川越口(下頭橋)から上・中・下の三宿に分かれ、文政六年(1823)の「上板橋村地誌改書上帳」には、宿内は「六丁四拾間」(約730m)道巾は「三間」(約5.5m)と記載されています。宿の中程には名主屋敷と称する建物があって、昭和の初めごろまで遺っていたようです。 名主の河原与右衛門家は明治期には転居してしまいましたが、 明治期に副戸長を務めた榎本家には「上板橋宿副戸長」と刻まれた石碑が現存しています。
上板橋村は町場(宿)と村方に分かれ、その村方の範囲には現在の板橋区の南西部地域と練馬区の小竹・江古田も含まれ、その地域からは人馬が提供され旅客や物資の継立を担っていました。
オブジェ
どんな経緯があるんだろう。
特に説明などは書いてなかった。
◆地蔵堂
宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。
むかし鎌倉時代の武将豊島清光が行基に7つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。
浄土宗の専称院となったのは、宝永年間(1704~11)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政十二年(1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても有名でした。
専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12年ころのことです。
もともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に附属する香林庵が残っていました。香林庵は明治七年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。
石塔等
御祭神 倭建命
もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わったといいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。
社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の「板橋」という説もあります。
石塔等
◆青面金綱庚申塔
◆仲町地域センター
集会室などが借りられる板橋区の施設。
仲町地域センター・管内集会所|板橋区公式ホームページ
続く。