2018/06/28 01 荒川散歩 06 井上省三君碑/日本羊毛工業発祥の地/千住聖絨所跡/若宮八幡神社/板紙発祥の地/地蔵堀児童遊園/隅田川

歴史のある大きな工場があったとのことで、史跡が並んでいた。
ちょっと交通の便は悪いところだね。



◆井上省三君碑






 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。




◆日本羊毛工業発祥の地




 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。




◆千住聖絨所跡




 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。




◆若宮八幡神社

若宮八幡神社八幡太郎義家伝説

 若宮八幡の名のとおり仁徳天皇を祭神とする。平安時代、奥州攻めに向かう八幡太郎義家(源義家)が、荒川の「渡裸川の渡し」を渡る際、目印に白幡を立てたとも伝える。足立区千住仲町の白幡八幡は、この白幡が納められた神社という言い伝えを持ち、この付近が古くから渡河地点であったことを推測させる。
 婦人の病に効験があるとされ、祈願して治った時には二股大根を描いた絵馬を奉納するという。近隣の崇敬を受け、平成十九年(2002)に社殿の新造営が行われた。





神社の一部は公園になっていた。





◆板紙発祥の地





 明治21年8月10日 東京板紙会社 社長佐久間貞一が, この地に工場を設立し, 翌22年(1889)6月新式抄紙機を英国から輸入するとともに外国人技師を 雇い, 稲藁を原料としてボール紙の生産を開始した。
 わが国に於いて本格的にボール紙(板紙, 段ボール原紙等)を機械製造したの は, これが最初のことである。以来需要は年を追って増加し, 昭和63年(1986) には, 100万屯を超えるに至った。
 原料も藁工品(空俵等)から故紙へと変遷した。その間に多くの関連業界が 成長し, 地域の発展に寄与した。
 このたび, 荒川区のご協力により旧工場跡地に製造開始100年を記念すると ともに, 先人達の苦労に深い敬意と感謝を表しこれを建立した。





◆地蔵堀児童遊園




隅田川







続く。

2018/06/28 01 荒川散歩 01 三河島/三河島道踏切/三河島稲荷神社/ 喜楽浴場/三河島竜神/荒川三丁目公園/耳無不動三峰神社

24時間勤務アケで、三河島から南千住へ、そして都電の荒川二丁目まで歩き、三河島ポンプ場を見学した。
暑かったが風が強かったので少しだけマシだった。




◆JR常磐線三河島駅




変わった構造の駅だね・・・。
下に降りていく線路はどこに行くんだろう??




三河島道踏切




三河島稲荷神社

三河島稲荷神社は通称で、宮地稲荷神社というのが本当の名前らしい。



境内社




 三河島稲荷ともいう。宮地の名は当社よりおこったものであろうといわれる。天正7年(1579)の創建と伝えるが、今は失われた棟札に「弘治3年(1557)8月武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあったという。
 祭神は倉稲魂命猿田彦大神、天神社、神明宮、疱瘡神などを合祀している。とくに脚気に効き目があるとして参詣する人が多く、祈願成就の時には草鞋を奉納したという。末社天神社の神木の大欅は樹齢650年といわれたが、現在は切株のみが残る。社殿の右側には新吉原から奉納された安永8年(1779)2月初午銘の手水鉢がある。




三河島菜と枝豆

 三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で、江戸時代初期に、三河国(愛知県)の百姓が入植してつくりはじめたと伝えられています。
 三河島菜の特徴は、葉の幅が広く、色は黄緑。現在の白菜のようには結球せずに大株になり、外葉のつけねの部分が外の方向に張り出し、船の錨 に似た姿なので「いかり菜」とも呼ばれ、漬物にして食べていました。明治初年頃から作付面積が増えていきましたが、まもなく白菜の人気が高まるにつれて、 とって代わられました。
 三河島枝豆は三河島菜と共に作られてきた品種で、7月の中頃に収穫できる枝豆で、枝数が多く、さやの表面についている毛は白色、葉は濃い緑で、一鞘に3粒の豆が揃ってつく優れた特性をもっています。この地域の土質は、荒川下流の沖積土で、枝豆の栽培に適していました。
 しかし、当地の宅地化が進んだため、農地の消滅と共に、「三河島菜」「三河島枝豆」の産地は、東京農業の歴史にその名を止めるだけになってしまいました。



鳥居




◆喜楽浴場

すぐ右側に写っている銭湯




三河島竜神




◆荒川三丁目公園





◆耳無不動三峰神社


耳無不動


耳無不動の脇にあった庚申塔など



袈裟塚耳無不動

光三郎(仙光院9世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝承されている。
伝承によれば、悪い病いで耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚をつくり不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦10年(1760)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道しるべの文字が刻まれている。また、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝の「三河島御不動記」という黄表紙が寛政元年(1789)に板行された。
明治29年明治通り北側から三峰神社内に移された。





続く。

2018/06/28 01 荒川散歩 02 仙光院と峡田小学校跡/ 荒川区役所前歩道橋/荒川区役所/荒川消防署/地蔵堀の石地蔵/荒川警察署/加藤屋敷跡

ほぼ明治通り沿いに東へ。
都電の荒川一丁目あたりまで移動。



◆仙光院と峡田小学校跡




 仙光院は真言宗の寺院で、山号は阿照山阿弥陀密寺。慶長八年(1603)創建で、阿弥陀を本尊としたが、二度の火災の後、元禄二年(1689)、鶴ヶ岡八幡の荘厳院から不動明王を移し本尊としたという。
 九世は耳無不動(現、三峰神社内)を建立した東叡山、の僧光慧。明治になり、廃寺となったが、明治二年(1869)本堂を修復し、尾口八郎が寺子屋とした。明治十年(1877)名川蠖屈がそれを継ぎ、明治十六年(1883)峡田小学校がここに開校。明治三十四年(1901)、荒川三−七七−一(旧第一峡田小学校)の地に移された。跡地は三河島村役場となり、昭和七年(1932)から荒川区庁舎として使用された。




荒川区役所前歩道橋








荒川区役所

手前に移る樹々は荒川公園のもの。
奥に少しだけ見える建物が区役所。
上の歩道橋から撮影。



◆荒川消防署



◆地蔵堀の石地蔵




 この石地蔵は、地蔵堀と呼ばれた用水堀の傍ら(現、サンパール荒川)に南向きに立っていた。大正十四年、現在位置へ移され北向きになった。地蔵堀は今は道路になっている。
 石の台には元文五年(1740)に浄正寺十三世、寛誉が願主となり、三河島村の村人の尽力で再建されたことが刻まれている。当時、ここは三河島村の集落のはずれで、付近のよい目じるしになっていたばかりでなく、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したといわれる。今も交通安全祈願の地蔵として祀られている。




荒川警察署脇にあった。



◆荒川警察署



◆加藤屋敷跡



 この付近には、伊予国愛媛県新谷藩主であった加藤氏の下屋敷があった。元禄十一年(1698)、二代泰觚のとき、三河島村に下屋敷二千百五十三坪(約七千百平方メートル)を拝領したものである。大関氏抱屋敷の北西、現在の荒川一丁目三十六〜三十八番あたりと推定される。
 維新後、明治政府によって屋敷は上地となり加藤氏はこの地を去ったが、三河島町大字三ノ輪字加藤という地名が昭和七年の荒川区制施行まで残っていた。




続く。

2018/06/28 01 荒川散歩 03 常磐線第3三河島ガード/大関横丁/常磐線第1三の輪ガード/稲荷大明神/三ノ輪橋駅/里見稲荷大明神/ジョイフル三ノ輪

都電三ノ輪周辺を散策。
商店街などは昭和の雰囲気が漂うね。



常磐線第3三河島ガード




大関横丁




 大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃下屋敷(南千住一丁目一〜八番付近)の南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩加藤大蔵少輔下屋敷(荒川一丁目三十六〜三十八番付近)があった。
 明治通りに拡張される前の道幅は、約二間(約四メートル)で、大関横町から三河島道(区立第一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。





常磐線第1三の輪ガード




稲荷大明神






三ノ輪橋



関東の駅百選認定駅






◆里見稲荷大明神




ジョイフル三ノ輪

アーケードのある商店街。






続く。

2018/06/28 02 三河島ポンプ場(定例見学会)

定例の見学会です。
今回は三河島にある「三河島ポンプ場」に行ってきた。






とても重厚なレンガ造りの建物。



正門



門衛所

三河島汚水処分場の表玄関として門衛所、正門が大正14年(1925年)に整備されました。
<門衛所>
庇の下に出勤簿が置かれ、出勤した職員はここで押印していました。
また、外来者はここで記帳していました。
<正門(重要文化財指定外)>
三河島水再生センターの表玄関として利用されています。




最初に会議室のような場所に通されて、だいたいの説明とDVDを見てポンプ場の中へ。
最近は「マンホールカード」集めだけの目的の人も居るので、詳しい説明が必要かどうか最初に聞いていた。
それだけが目的の人も居るんだね。



沈砂池(ちんさち)









沈砂池は、下水がこの池の中をゆっくり流れることで下水中の土砂類を沈殿させる施設です。また、浮いている大きなゴミはスクリーンで除去します。
現在の沈砂池底部から約1.8m下に建設当初の底部があります。横壁部は無筋コンクリート造で、底部に向かい壁厚が厚くなる重力式壁となっています。
また、横壁にかかる圧力に耐えるほか浮力防止のため、控え壁が築かれています。
沈殿した土砂は揚泥機(ようでいき)でかき揚げました。かき揚げた土砂は、横転式の土運搬車に積まれ、インクラインによって場内道路まで引き上げられ、場内に敷設されたレール上を走行し捨て場まで運ばれていました。






土運車引揚装置(どうんしゃひきあげそうち)(インクライン





レールの跡




インクラインとは、コンクリート造の傾斜路(軽射角約7度、標高差約3.6m)に複線のレールを敷設し、上部が水平な台車がレールを走行する施設です。沈砂やごみを積んだ土運車は、台車の上に乗せられた状態で、傾斜路の上の道路まで往復していました。
昭和37年(1962年)に沈砂・ゴミの処理方法が変わったことにより、上と下にあったプラットホームを撤去し、埋めました。




ヘルメットをかぶって地下へ!!



沈砂池が二つあるが、ここで分岐している。
交替で使っていたとのこと。



喞筒室暗渠(ぽんぷしつあんきょ)(阻水扉室(そすいひしつ))



二系列に分けられて沈砂池を通過した下水は、喞筒井接続暗渠により、阻水扉室を通って喞筒井へ流入します。喞筒井は、大きく四つに区切られ、その配置は漢字の「天」のようになっています。
阻水扉室には、底弁を修理する時に阻水井を締め切るための阻水扉の扉体が壁面のフックに架けられています。また、東側扉には直径0.91m(三尺)の場内返水管渠(じょうないへんすいかんきょ)が接続されています。




10号喞筒井




喞筒井とは、下水をポンプでくみ上げるためにポンプの吸水管を配置した、枡のことです。10号喞筒井は、昭和8年(1933年)から10代目のポンプ用として使用されました。
10号ポンプには停電時の逆流を防ぐための流止弁を送水管の途中に取り付けました。そのため、吸込管の先端にはラッパ管が取り付けられました。
すべての喞筒井には、整流用にコンクリート造の山型ガイドが設けられました。


↑ラッパ管




地上へ出てポンプ室へ



汚水ポンプ




喞筒室には、10台(当初は9台)のポンプが設置され、地下の喞筒井から下水をくみ上げていました。当初のポンプは「ゐの口式渦巻ポンプ」といいます。これは、東京帝国大学教授「井口在屋(いのぐちありや)博士が明治38年(1905年)に発表した、渦巻ポンプのの原理を数学的に解明した世界初のポンプ理論にもとづき制作された渦巻ポンプでした。
現在のポンプは、昭和39年〜48年(1954〜1973年)にかけて取り替えられたもので、当初のポンプからすると第二〜四代目にあたります。




ヴェンチュリーメーター




ヴェンチュリーメーターは、流量の記録を行います。
測定は流水器室内のヴェンチュリー管の頭管(太い部分)と喉管(細い部分)の外周にそれぞれ8箇所ある孔から圧力水が取り出され、喞筒室に設置されている記録計へ送られました。
記録計は英国ジョージ・ケント社から大正11年(1922年)に輸入されました。当時の価格で32,860円と高価なものでした。(当時の米10Kg の価格は約2円)




ー馬蹄形レンガ敷きの下水管ー

これは三河島処理場に流入する浅草幹線の一部で、主ポンプ室流入渠改造工事に伴って掘り出されたものです。




土運車引揚装置用電動機室



土運車引揚装置用電動機室(インクライン)を動かすための電動機巻上機が設置された建物で、ここから巻上機の運転操作を行っていました。
昭和37年(1962年)にインクライン設備が撤去された際に、巻上機も撤去されています。しかし現在でも、床に機械基礎の跡を見ることができます。




ここからワイヤーロープが出ていた。



土運車引揚装置用電動機室の壁

何か所か工事した人の足跡を見ることができる。






今回は情報量がかなり多く、頭の悪い僕にはちょっと厳しかった(w
先人の知恵と工夫を総結集したような建物だった。
今の日本人にはこれだけのことができないかもしれないね・・・・。





反省会は町屋で!
楽しかった♪

2018/06/28 01 荒川散歩 05 眞正寺/円通寺/歴史と文化の散歩道/南千住警察署/旧千住製絨所煉瓦塀/荒川総合スポーツセンター/井上省三像

この日の散歩で一番歴史を感じる場所。
情報量も多く、記事を書くのが大変(w



◆眞正寺




 寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。
 町奉行支配地で、寛延二年(1749)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治二年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、同十二年(1879)下谷通新町に合併された。







円通寺



旧上野の黒門

 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(1868)五月十五日に旧幕臣彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊氏の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と仲田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(1907)に帝室博物館より円通寺に下賜された。








この穴が全部弾痕なんだね・・・・。
恐ろしい・・・。



彰義隊士の墓






 慶応四年(1868)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる彰義隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年(1907)、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年(1985)に修復工事が行われている。



板碑四基

 円通寺の板碑4基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁4年(1296)十月日銘は、日慶寺の正応二年(1289)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代の人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(1329)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。




百観音円通寺

 延暦十年(791)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりと小塚原とよぶようになったという。
江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の入谷鬼子母神真源寺とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂安政二年(1855)の大地震で倒壊した。
境内には、石像七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296)銘をはじめとする板碑四基(区指定文化財)などがある。








◆歴史と文化の散歩道

奥州街道千住宿
 千住大橋は文禄3年(1594年)、徳川家康隅田川に最初に架けた橋である。この周辺は奥州街道1番目の「千住宿」として発展し、江戸と東北を結ぶ重要な交通拠点となっていた。隅田川には、定期船が往来し、米や材木などを運んだため、熊野河岸(熊野神社周辺)は大いに賑わった。街道沿いにある素戔嗚(すさのお)神社
・橋戸稲荷には、松尾芭蕉の奥州(奥の細道)への旅立ちを記念した碑がある。このように「千住宿」は、交通や物資流通の面ばかりでなく、文化的交流にも大きな役割を担ってきた。
 また、現在のJR南千住駅付近には、小塚原刑場があった。杉田玄白らがここで腑分けに立会い、のちに「解体新書」翻訳を完成させた。小塚原は、日本近代医学史に残る地であり、回向院に「観臓(かんぞう)記念碑」がある。





◆南千住警察署




変わったキャラクターがいた。





◆旧千住製絨所煉瓦塀




 この煉瓦塀は、明治十二年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9メートル、南側8.4メートルで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治四十四年(1911)から大正三年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域の近代化に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の2つの紡績工場(南千住八丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住三丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は興行と商業の町へと変貌していきました。内務省農商務省陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和二十四年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、昭和三十六年(1961)に工場が閉鎖され、80年余利の羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。




◆荒川総合スポーツセンター




◆井上省三像

上記「旧千住製絨所煉瓦塀」の説明にあった偉人。
次の日記にも登場。



続く。

2018/06/28 01 荒川散歩 04 大関屋敷跡/下谷通新町/心池弁財天/砂場/石川屋敷跡/大勝湯/南千住第四児童遊園

ジョイフル三ノ輪周辺を散策。
江戸の三大蕎麦の一つ、砂場に行ってみるも休みだった(w
あわわ・・・・・・・。



大関屋敷跡



google mapに載っていたので来てみたが、説明板とか見つからない。
マークの位置はこの写真の場所辺り。




下谷通新町




下谷通(現国道4号線)の両側に発達した町、南は下谷三ノ輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していた。町の広さは東西四五間(約81メートル)、南北六町余(約654メートル)、『御府内備孝』によれば、寛文元年(1661)の割付に「小塚原新町」、元禄九年(1696)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。町名が下谷通新町に変わった時期は元禄八年(1695)頃とされている。町奉行と代官の両方の支配であった。明治一一年(1878)には下谷区に属し、翌一二年に下谷真正寺町を吸収した。同二二年に南千住の一部となった。




◆心池弁財天



◆砂場

お蕎麦食べたかったなあ。
また今度来よう。



◆石川屋敷跡



 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三の輪あたり)にあって、総坪数11040坪(約36400平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(1658)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち10530坪(約34700平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文5年(1665)三河島村重右衛門の所有地518坪(約1700平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築した。
 この石川屋敷では、4月から7月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。




◆大勝湯

お昼頃だったけどもう開店していた。
調べてみると朝10時半からやってるみたい。




◆南千住第四児童遊園





続く。

2018/06/28 01 荒川散歩 07 藍竈神社/荒川自然公園/荒川二丁目/ゆいの森荒川/皇太子殿下御降誕記念碑/三河島第2児童遊園

見学予定地の荒川ポンプ場周辺を散策。
公園もあって落ち着く場所だった。



◆藍竈神社




神社らしき建物はあるけど、敷地の中に入れなかった。




◆荒川自然公園








白鳥・・・・って今の時期に居ていいんだっけ?






カブトムシがたくさんいた。




◆荒川二丁目






◆ゆいの森荒川

吉村昭記念文学館、図書館、子供広場、の複合施設。
吉村昭氏は荒川区を代表する小説家で、著作で、「星への旅」「戦艦武蔵」「関東大震災」などがある。





◆皇太子殿下御降誕記念碑




国旗の掲揚台かなあ?
詳しいことは判らなかった。
左隣は交番だった。




三河島第2児童遊園



これで散策は終わり。
この後はいつもの見学隊の皆さんと合流し、
三河島ポンプ場に見学に行った。