2020/10/13 荻窪散歩 04 三栄印章/幸せ地蔵/西荻窪駅南通り会/西教寺/水口家住宅洋館/松庵文庫/西高井戸松庵稲荷神社

まだまだ東へ進む。



◆三栄印章

看板建築だね。
「まちかどの名建築 P24」参考。




◆幸せ地蔵



郵便局前にいらっしゃった。




西荻窪駅南通り会

商店街♪





西教寺



浄土真宗 開山 親鷲聖人
承安三(1173)親鸞聖人は京都日野の里でお生まれになりました。 養和元年(1182)九歳のとき青蓮院にて慈円僧正のもと出家得度され、比叡山に入られました。
 建仁元年(1201)、九歳のとき六角堂に参篭され、聖徳太子の夢告により吉水の法然聖人を訪ねられ、そこでお念仏の、教えに出遭った親鸞聖人は、のちに「自力の修行を捨てて、阿弥陀仏の本願を信じ、帰依する」と告白されています。
 承元元年(1207)念仏禁止の法難にあい、越後(新潟県)に流罪となられ、その後、常陸の国(茨城県)に移られて関東各地の人々にお念仏の教えを説き広められました。その間に『教行信證』のご執筆に力を注がれ、文暦元年(1234)六十三歳のとき京都に帰られました。
 今日残っている親鷲聖人の御述作の多くは晩年に書かれたものです。「阿弥陀如来の本願を信じ、念仏申さば仏になる」という浄土真宗の教えが丁寧に述べられています。
 多くの苦悩を逆縁として益々信仰を深められた。
親魔聖人は、弘長二年(1262)十一月二十八日、新暦一月十六日、九十歳でお浄土へ往住されました。





近くにいたネコちゃん。
耳が欠けているね・・・・。






◆水口(みなくち)家住宅洋館



登録有形文化財
参考。
水口家住宅洋館 文化遺産オンライン







◆松庵文庫

「まちかどの名建築 P42」参考。
カフェ。
facebooktwitterのページがあった。
https://www.facebook.com/shouanbunko
松庵文庫 (@shouanbunko) | Twitter






◆西高井戸松庵稲荷神社

こちらは以前お参りに来ている。
2019/07/18 02 久我山散歩 05 西高井戸松庵稲荷神社/西高井戸児童遊園/西荻南口 仲通街/花の童子/西荻窪駅 - ovanの社会科見学



 この神社は旧松庵村の鎮守で祭神は受持命(うけもちのみこと)です。
 松庵村は万治年間(1658~1660)に松庵という医者が開いたと伝えられ、安養寺(武蔵野市)の供養塔にある萩野松庵がその人ともいわれています。
境内入口には元禄三年(1690)、元禄六年(1693)銘の庚申塔があり、元禄三年のものには、「武州野方領松庵新田」と刻まれています。このことから元禄三年以前にはすでに新田開発の村のとして開かれていたものと考えられます。
 この神社は明治維新の際に廃寺となった円光寺(天台宗江戸八丁堀湊町普門院末)の境内にあったもので「新編武蔵風土記稿」の松庵稲荷の項には「上屋二間ニ二間半内ニ小祠ヲ置社前ニ鳥居ヲ立村内ノ鎮守ニシテ例祭ハ期日ヲ定メズ」と記されています。
 昭和九年に、隣村中高井戸村の鎮守稲荷神社を合祀以後、西高井戸松庵稲荷神社と称し、同十年には社殿を改築し、今日にいたっています。
 社前の五日市街道は江戸時代には「青梅街道脇道」とも呼ばれ、炭をはじめとする生活物資の輸送に大きな役割をはたしてきました。
 なお、神社の北側裏手に円光寺歴住の墓地があり、元禄九年をはじめとする没年が記されているのが見られます。
 祭日は九月十五日です。


楽殿


境内稲荷社



お狐さまミイラ
昔当稲荷神社西側に円光寺というお寺がありました
そのそばに大きな築山がありまして狐が穴を掘って子狐を育てていました。
あるときとなり村の村人が子狐を捕まえて食べてしまいました。
親狐は子狐と別れた悲しみのあまり
前足をくわえた姿で拝殿の床下から発見されたのです。
以来この狐を社にあらためてお稲荷様のお使い姫として
そのご神体を敬いお祀りしてあります。


庚申塔


鳥居1


鳥居2







続く。

2020/10/13 荻窪散歩 03 中央線高架/西荻伏見通り商店街/伏見稲荷神社/西荻窪駅/西荻窪銀座会/西荻南中央通り銀盛会/京桝屋染物店

だいぶ南北にブレるが徐々に東へ移動。



◆中央線高架



今度はコチラを通って中央線の北側へ。








西荻伏見通り商店街

商店街♪









伏見稲荷神社




手前の道が「西荻伏見通り商店街」








西荻窪駅



こちらを通って中央線の南側へ。








西荻窪銀座会

商店街♪








西荻南中央通り銀盛会

商店街♪









◆京桝屋染物店



なかなかレトロでいい感じですね。
看板建築で良いと思う。
その手前のお店もなかなかだね!







続く。

2020/10/13 荻窪散歩 02 松籟公園/崎玉稲荷神社/本田東公園/中央線高架/松庵商店会/夢見地蔵/西荻窪駅

どんどん東へ進み、西荻窪駅に到着。



◆松籟公園




離れたところからも公園の樹木が見える。
夏は涼しそうな公園だね。






◆崎玉稲荷神社








◆本田東公園



旧吉祥寺村開村100年ってあるね!
こちらに関しては調べても情報が得られなかったなあ。







◆中央線高架



こちらを通って今度は中央線の南側へ。



謎の暗号(w






◆松庵商店会

商店街♪








◆夢見地蔵



松庵商店会内にいらっしゃった。






西荻窪駅

西荻窪駅ホームの西側が写っている。








続く。

2020/10/13 荻窪散歩 01 吉祥寺駅/吉祥寺駅前/吉祥寺オデオン/末広通り/旧・埴谷雄高邸/本宿架道橋/小祠

仕事お休み。
吉祥寺駅から中央線沿いに高円寺の自宅まで散歩。



吉祥寺駅から東へ向かう。



吉祥寺駅






吉祥寺駅

ゾウのはな子
散歩する方向はコチラではないだが、吉祥寺に来たら辛なず逢いに行くことにしている。



この写真に写っているビルのどこかで働いていたことがある。






◆吉祥寺オデオン



奥に見えるのが吉祥寺駅
オデオンの手前のビル、スーパーだったような気がするなあ。
今度は何になるんだろう?






◆末広通り

商店街♪






◆旧・埴谷雄高




google mapマークの位置はだいたい上の写真あたり。
説明板などは見当たらなかった。

『埴谷 雄高(はにや ゆたか、1909年(明治42年)12月19日 - 1997年(平成9年)2月19日)は、日本の政治・思想評論家、小説家。本名般若 豊(はんにゃ ゆたか)。』
埴谷雄高 - Wikipedia

お住まいになられていた場所の記載が調べても見つからないので、ここで合っているのかどうかわからない。






◆本宿架道橋



こちらを通って中央線の北側へ。



謎の暗号(w






◆小祠

現地でも何が祀られているのかわからなかった。
google mapには「小祠」とあるのだが、そんなに小さくはない。







続く。

2020/10/12 増上寺散歩 08 平成末広稲荷社/御成門駅/岩谷・三井倉庫/烏森神社/新橋駅

増上寺を巡った後は新橋駅へ向かう。
前回の日記とだいぶダブるところがあるので新橋駅前はルートを変えてみた。
が、烏森神社も一度来たことがある。



◆平成末広稲荷社

正面はお地蔵さまだね。



右脇に小さな鳥居と祠があった。
こちらが稲荷社で良いと思う。



左脇にはが碑があった。
しかし判読できず、なんの碑なのかわからない。







御成門駅

UFO?
って思って思わず写真撮った。
帰ってから調べてみると、他にも「UFO」だと思った人がいらっしゃるね。

「眞坂雅文」氏の作品で、「連山夢想」という作品。
少なくともUFOではないようだ。







◆岩谷・三井倉庫

前に撮ったところを逆から。



<2020/10/04撮影>
2020/10/04 虎ノ門散歩 07 浅野内匠頭終焉之地/三井倉庫・岩谷産業/桜田公園/岡山藩池田家中屋敷跡/新橋西口通り/新橋駅 - ovanの社会科見学







◆烏森神社

こちらは一度お参りに来ている。
2017/04/25 銀座・新橋散歩 GINZA SIX/八宮神社/静岡新聞/新橋駅/烏森神社/赤煉瓦通り - ovanの社会科見学



平安時代天慶三年(約1000年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている。室町時代の享徳四年(約500年前)には室町幕府関東管領古河公方と云われた足利成氏は、当社に戦勝祈願した。その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ、稲荷祭としてその賑わいは江戸で一二を争うものであった。
明治以降は五月四・五・六日を祭日とし、夏祭りのはしりとしてその名をうたわれている。
当社殿は伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に、神社本来の伝統を加味し昭和四十六年十二月、氏子の熱意により竣工をみたものである。









◆新橋駅

ゴールのJR新橋駅。


SL広場





今回はチェック漏れがあって何個か見逃してしまった。
赤十字の資料館(コロナで休館中)と増上寺の工事後にまた来る予定なので、その時に漏れたのも巡ろうと思う。
涼しくなったので歩きやすくなったが、これだけ歩くとやはり暑いね(w

2020/10/12 増上寺散歩 07 増上寺

情報量が多いので1ページにした。
10月1日から屋根の葺き替え工事なんだってね・・・・。
もう少し早く来ればよかったなあ。







<2015/04/01撮影>




三縁山 広度院 増上寺
 浄土宗の七大本山の一つ。
 三縁山広度院増上寺 (さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
 開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖 西誉聖聡 (ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚 (現在の千代田区紀尾井町) の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
 江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応 (げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依 (きえ) を受け、手厚い保護を受けました。
 慶長三年(1598 )に現在の地に移転し、徳川将軍家菩提寺として、また関東十八檀林 (だんりん) の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
 その規模は、寺領一万石余、一二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
 現代でも浄土大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。



沿革

 浄土宗の七大本山の一つ。三線山広度院上寺 (さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
開山は明徳四年(1393年)浄土宗第八祖 西誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(1598年)に現在の地に移転しました。
 文明二年(1470年)には勃願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。
 江戸時代初期、増上寺法主十二世 源誉存応(げんよそんのう)上人後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。
 徳川将軍家菩提寺として、また関東十八壇林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
 その大きさは、寺領一万石余。二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
 現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ.建造物、古文書、経など多数の重要文化財を保管しています。









◆三解脱(さんげだつ)門



 慶長十六年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭、中井大和守正清によって建立され、元和八年(1623)に再建されました。
 この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
 三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに·いかり)、愚痴(ぐち-おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
 建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
 その大きさは、間ロ十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。
 さらに左右には三間(約5.4m)の山廊を有しています。
 上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。









◆宗祖法然上人御光誕850年慶讃 タイムカプセル 記念埋設の標

左半分が判読できず文字化を断念・・・。
三解脱門から入ってすぐ右側にあった。









◆聖観世音菩薩









◆仏足石



 仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。
この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。








◆魚供養之碑



 魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。
 今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。
 願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。









◆ブッシュ槙(コウヤマキ



米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57 年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。









◆詠唱発祥の地

増上寺のHPに・・・。
終戦直後の焦土と化した昭和21(1946)年、増上寺山内の浄土宗宗務所において、宗門教化のため詠唱を以って始められたことは、檀信徒を勇気づけ、こころの安穏を取り戻すことでした。そして、増上寺を詠唱発祥の地としたのでありますが・・・・』
とあった。
吉水講|関係団体|大本山 増上寺









◆水盤舎



 この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体、昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。
 徳川将軍家霊廟建築 を伝える数少ない遺構のひとつです。



 元は清揚院(三代将軍徳川家光の三男・六代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝六年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和二十年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。
 この水盤舎は綱重の御霊屋建築の内、現存する唯一の建物であるとともに、徳川家霊廟の建造物として現存する数少ない遺構として貴重なものです。









◆聖鋏観音



 この聖鋏観音像は、昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
 願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。
 聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
 毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。

ハサミ供養法要が厳修されハサミは観音菩薩の御手そのものである









◆慈雲閣









◆土木建築殉職者慰霊塔



土木建築事業ハ一國文化ノ
象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ
能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築ク
や固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖
レス斯ノ高業ニ従フモノ洵
ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ
而シテ不幸ソノ職ニ殪レシ
モノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其
ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナラ
ンヤ茲ニ全國同業者ノ寄進
ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永
ク其ノ菩提ヲ弔ハントス


調べるとこんなサイトが見つかった。
土木建築殉職者慰霊塔について | 一般社団法人 全国建設業協会









増上寺旧方丈門(黒門)




 増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。
 四脚(しきゃく)門で、建造年代を明らかにする棟札(むなふだ)などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のもの
と推測される。
 蟇股(かえるまた)には唐獅子や壮丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風触のため、古色をおびているが、挑山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。










増上寺経蔵



 増上寺は明徳四年(1393)酉誉聖聡により武蔵野国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長三年(1598)現在地に移転しました。慶長十年(1605)から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門。方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家菩提寺、浄土宗の関東十八壇林の筆頭に就き、浄土宗宗教を総括する総録所となりました。
 経蔵は慶長十年(1605)に創建され、天和元年(1681)十二月に改造移築し、さらに享和二年(1802)六月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て八面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、事由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。









増上寺会館










◆石碑



判読ができず文字化を断念。










◆幼少の法然さま










◆祐天桜










◆暗黒殿と黒本尊



 この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を記る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
 建物の老朽化に伴い、平成二十三年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
 「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが記られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。









◆西向観音像

 西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
 将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本像とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。










◆千躰子育地蔵菩薩(せんたいこそだてじぞうぼさつ)
]


 
 子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。
 幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」 「風車」をお地蔵さまに奉納しています。
 地蔵菩薩像には触らないでください。









◆徳川将軍墓所

 戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
 墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
 その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
 正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前『中門』であったものを移築しました。
 左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今ラに伝える数少ない遺構です。
 墓所には、二代秀忠公・六代家宣公·七代家継公・九代家重公・十二代家慶公·十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静静寛院(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。


鋳抜門

 増上寺徳川将軍家菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年(1945年)三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられた。
 

明治期の増上寺御霊屋図


増上寺御霊屋


全景


合祀塔


十四代将軍御正室静寛院皇女和宮


昭徳院殿十四代家茂公


文昭院殿六代家宣公


台徳院殿三代秀忠公


有章院殿七代家継公


惇信院殿九代家重公


慎徳院殿十二代徳川家慶









◆四菩薩像



正面から
普賢菩薩(ふげんぼさつ)   (辰年守本尊)
地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)     (子育地蔵)
虚空蔵菩薩 (こくぞうぼさつ) (丑寅守本尊)
文殊菩薩もんじゅぼさつ ) (卯年守本尊)

 もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。
 西向の観音像に対し東向きであった。
 正嘉二年 (1258)の作と伝たえられる古像である。



 向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の四体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。









◆お歌の由来

他の水ひとのこころに似たりけり
  にごりむことさだめなければ

法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。


お歌の由来

月かげの いたらぬ里は なけれども
    ながむる人の 心にぞすむ

観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てたまわ」の意と、法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。


鐘楼堂

 増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人びとの自慢も、実感を伴っていたことが窺われます。



 寛永十年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大楚鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
 徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。
 その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貴(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」·「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」·「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。









◆写経塔










熊野神社


熊野三所大権現宮(ゆやさんしょだいごんげんぐう) 由来記

増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。

御神体
 熊野本宮大社 家津御子大神(ケツミコ ノ オオカミ)
 熊野那智大社 大己 貴命(オオナムラノミコト)
 熊野速玉神社 伊伊弉諾尊イザナギノミコト)
以上の三御神体を記り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。
祭禮は毎年三月三日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は四月第三日曜日に定まる。


綿貫次郎創立四十周年記念碑



西暦1974四年(昭和四十九年)故_綿貫次郎翁 (通称右じいちゃん)は每日增上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。
増上寺の繁栄を願い、若者達のカでお手伝いをしようと関係のある神輿仲問に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。
増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。
江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講 」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに四十周年を記念し石碑を建立いたします。


手水舎



三本足の鳥 [八咫烏(やたがらす)]

『神々のお使い』
日本書紀によると
 神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。
そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。

『日輪の中に三本足の鳥』
 ルーツは中国で、太陽の中に三本足の鳥が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は鳥によって空を運ばれるとも考えられました。
島の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である『三』こそが太陽にふさわしいと考えられます。
日本に於いても、三本足の鳥が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。
また時代によっては、『地・仁・勇』或いは『天・地・人』を表すとも言われています。
日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の鳥と八咫烏が習合し、熊野の鳥も三本になったものと考えられます。

『シンボルマーク』
 天皇即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八隈島の刺繍が施されているそうです。
近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。
 私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の鳥の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。
皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。






続く。

2020/10/12 増上寺散歩 06 天光院/地蔵/港区役所/松原の復元碑/浅岡飯炊きの井/平和の女神像

少し西側へ出て日比谷通りに出た後は南下。
増上寺を目指す。



◆天光院

前の日記で「浄土宗近代教育発祥之碑地」がわからず、今回再訪してみた。
2020/10/06 芝公園散歩 09 芝公園(日本近代初等教育発祥の地・伝染病研究所発祥の地・浄土宗近代教育発祥之碑地 - ovanの社会科見学

境内の大門駅に近い柵のところに碑があった。
これじゃあわからないね。。。


浄土宗近代教育発祥之碑地

当山天光院は 天正12年(1584)8月 増上寺11世円也上人の開基
明治二十年(1887)七月十八日, 浄土宗の近代学校制度による 宗学本校が当院内に設置
同二十三年一月小石川移転まで 一宗の高等教育機関として始動
後には関東で、宗教大学、さらに大正大学へと発展、関西で仏教専門学校、さらに仏教大学へと発展する淵源となる。
まさに浄土宗近代教育の発祥の地である。
大正大学十二代(当山二十一世)、二十五代、二十六代(当山二十二世)の三学長が当墓所に眠るも有縁。 御縁の浄土宗御門主中村康隆猊下に表の揮毫を戴く。



ピントが手前の葉っぱに合ってしまって奥が撮れない(涙







◆地蔵

天光院門前から少し離れたところにいらっしゃった。







◆港区役所








◆松原の復元碑



 芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。
 それは、寛永十七年(1640)増上寺二十世大増正南誉(なんよ)上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。
 ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。
 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。


こちらが多分そのモニュメント


日本で最も古い公園の一つ芝公園

 公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市とよばれるほどに多くの庭園がありました。 しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、 江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などでした。
 明治に時代が移り、 新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、 公園が誕生しました。その後、 明治20年(1887)までに、 江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定されました。
 上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、 浅草、 深川、 飛鳥山と共に、 明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定されました。徳川将軍家菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25号地に区画されていました。現在も公園では号地のままで親しまれています。 当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になりました。







◆浅岡飯炊きの井



 江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の仕度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。
 万治三年(1660年) の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられる。
 昭和六十二年(1987年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存した。







◆平和の女神像

左端に写っているのが上記の「浅岡飯炊きの井」



 あの悲惨な戦争が終結してから長い年月を経て、ややもすると薄れつつある記憶 私たちはその事実を歴史の中にうすめてしまうことはできません。港区では恒久平和の願いをこめて昭和60年8月15日、「港区平和都市宣言」を行いました。
 平和を願う港区民の心の結晶として「平和の女神」像をここに設けます。


北村西望 作 とあったので調べてみた。
『北村 西望(きたむら せいぼう、1884年明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。』
『1953年(昭和28年)に戦前より長く住んだ東京都北区から東京都武蔵野市に転居し、都立井の頭公園内に自身のアトリエを建立、後に東京都にアトリエと制作した約350点にのぼる自作品を寄贈、それらは井の頭自然文化園彫刻館で展示された。なお寄贈した作品はその後も増加、最終的に約500点となっている。』
北村西望 - Wikipedia

井の頭自然文化園には何度も行っているのだが、彫刻館には行ったことが無い。
今度行ってみようと思う。





続く。