2020/10/12 増上寺散歩 05 芝大神宮/源宝院/赤十字社ビル/旧柳生藩上屋敷跡/愛宕警察署/日本自動車会館

大門駅からは細い路地を北へ進む。
赤十字社ビルからはほぼ同じ道を南下。



◆芝大神宮


芝神宮の力石



 カ石は重い石を持ち上げて「カ競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代
後期の文化·文政期には、職業的な力持ちカ士による興行が行われるようになった。
 芝大神宮のカ石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口町金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名な力持ちカ士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応三年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。
 港区内には、全部で十四点の力石が確認されているが、こうした力持ちカ士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市のカ石の民俗を知る資料として貴重なものである。


貯金と約祭



災厄は忘れた頃來たるという 関東の大震災も亦然り 當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支払猶予令を布いた 然るに其中にあってひとり預金の全額払戻を断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある 其名を不動貯金銀行という 即牧野源次郎翁が頭取であった。其不動貯金銀行の當時の焼け跡から出た欄稈破片二個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である
    倉は焼けても貯全は焼けぬ








◆源宝院









赤十字社ビル



赤十字情報プラザがあり、赤十字の歴史など学ぶことができるのだが、コロナウィルス感染拡大防止のため休館している。
残念・・・・・。








◆旧柳生藩上屋敷




google map マークの場所は上の写真のところ辺り。



古地図でも確認できた。


『柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生家(江戸柳生家)は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。』
柳生藩 - Wikipedia








愛宕警察署








◆日本自動車会館

「くるまプラザ」があって自動車に関する資料が見られるとのこと。
一般の人も入れるとのことなので機会があったら行ってみたい。
日本自動車会館










続く。

2020/10/12 増上寺散歩 04 文化放送/ニッポンマグロ漁業団/芝神明商店街/増上寺大門/芝大門更科布屋/大門駅

竹芝駅周辺を散策後はまた浜松町駅まで戻り、お昼ご飯後に西方にある大門駅を目指す。



文化放送






◆ニッポンマグロ漁業団



今日のお昼ご飯。
家に帰るまでご飯は食べないのだが、株主優待券の期限が切れそうなので使ってきた。






◆芝神明商店街

商店街♪






増上寺大門







芝大門更科布屋

1791年創業とのこと。
今度食べに来たい。






◆大門駅

人が多いね・・・。


近くにあった地図。






続く。

2020/10/12 増上寺散歩 03 世界貿易センタービル/旧芝離宮恩賜庭園/芝商業高校前交差点/汐留川水門/ヤクルト本社/竹芝駅/竹芝ふ頭/旧芝離宮恩賜庭園児童公園

浜松町駅前の世界貿易センタービルの後はゆりかもめ竹芝駅まで歩き周辺を散策する。



世界貿易センタービル

今度展望台にのぼるので下見。
あと、3F中庭にあるという神社を見たかった。


ビル前




3F中庭のオブジェ


3中庭のみなと神社








旧芝離宮恩賜庭園

一度一人花見できたことがあるので今回はパス。
写真はmixiだなあ。
後で探してみよう。



 延宝6(1678)年、4代将軍徳川家綱から埋立地であったこの地を拝顔した老中大久保加賀守忠朝は、ここに屋敷を作り、作庭を始めました。忠朝は、藩地の小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、貞享3(1686)年までに完成した庭を「楽寿園」と命名しました。これが、本庭園の起源です。
 「楽寿園」は、典型的な「池泉を中心とした回遊式庭園」で、その地割と石組は秀逸です。園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり、千満によって景色が変化するよう工夫されていました。 池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬薬山を表した中島など中国の趣を取り入れ、築山の上から白帆の行きかう沖合の海も望むことができました。その後、大久保氏より数氏を経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となりました。さらに有栖川宮家を経て明治8(1875)年に宮内庁がこれを買い上げ、翌年に「芝離宮」となりました。
 明治24(1891)年には、迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し、以来、多くの外国貴資を迎えました。
 大正12(1923)年の関東大震災によって、洋館をはじめとする建物と樹木のほとんどが焼失しましたが、翌大正13(1924)年1月、昭和天皇のご成婚記念として東京市(都)に下賜され、庭園の復旧と整備を施して、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開されました。
 現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、 海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙はかつての面影を残しております。
 昭和54(1979)年6月に「旧芝離宮庭園(文化財指定名称)」として国の名勝に指定されています。






◆芝商業高校前交差点



上は首都高速都心環状線







◆汐留川水門



配管が見えるのがいいね!






ヤクルト本社



2020/04/01 に新橋から移転。
東証一部上場企業。
会社名「ヤクルト」ではなくて「ヤクルト本社」という名前なんだね。

『株式会社ヤクルト本社(ヤクルトほんしゃ)は、日本の飲料・食品・化粧品・医薬品メーカーである。乳酸菌飲料メーカーとしては国内最大手。国外売上比率は4割。海外では39カ国・地域に進出している(2019年8月時点)。 』
ヤクルト本社 - Wikipedia


幼少期は地元でヤクルトを配ってお小遣い稼ぎをしており、大変お世話になりました。
大人になってからは工場見学でお世話になりました。
僕にとって人生でのウェートをかなり占めている企業ですね。


2015/04/23 ヤクルト千葉工場見学 - ovanの社会科見学

2011/12/08 キューピー五霞工場とヤクルト茨城工場見学 - ovanの社会科見学

2011/01/17 クラブツーリズムの旅 - ovanの社会科見学


こちらはヤクルト化粧品
2013/01/24 ヤクルト化粧品工場見学 - ovanの社会科見学







竹芝駅

ゆりかもめ「竹芝」駅。







◆竹芝ふ頭



像等あるが、名前がわからない・・・。




ターミナル建物入口


デッキ




記念碑

 西暦1845年(弘化2年)の春、アメリカ合衆国ニューヨーク州捕鯨船マンハッタン号のマーケーター・クーパー船長とその乗組員は、鳥島及び伊豆諸島海域で漂流中の日本人22名を救助し送り届けた。時の徳川慶喜将軍以下幕府の当事者は、その人道的人為的に深く感謝した。
 このことを記念してここに碑を建設する。








旧芝離宮恩賜庭園児童公園

こちらは芝離宮恩賜庭園の脇にあった無料で入れる公園。






続く。

2020/10/12 増上寺散歩 02 福沢・近藤両翁学塾跡/神明小学校跡地/赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石/芝神明町町屋敷跡遺跡/UHA味覚糖東京本社/北口横断歩道

まだ山手線沿いに南下し浜松町駅まで歩く。



◆福沢・近藤両翁学塾跡



 この地は1868年から1871年まで慶応義塾の在った処である。
福沢諭吉は築地鉄砲洲に在った家塾をここに移し、新たに塾舎を建て時の年号に因んでこれを慶応義塾と称した。あたかも明治維新の変乱に際し国中また文事を顧みる者のなかった時、この塾に集まった福沢以下の少壮学徒は、自から信ずる文明の主義に據って学問の独立を護り、わが国文運の命脈を一日も絶やすことかなかった。
 1871年慶応義塾跡を譲り受けた攻玉社は築地一橋邸跡から越して来て1925年西大崎に移るまでこの地で学校を経営した。創立者近藤真琴は和魂漢洋才、質実剛健、礼譲を重んじ誠意を旨とするを理想とし、中壮年部では英漢数の三科を主として海軍兵学校入学志願者を養成し、又他の上級学校進学希望者の為に歴史、地理、物理、化学等の諸科をも教授し後之を中学校に改めた。更に1879年創設した陸地測量習練所は後量地黌ー土木科ー工学校及び高等工学校と改称し土木工学の基を開いた。この外幼年部、女子部、商船黌 、専修数学科も或る期間設けられていた。








◆神明小学校跡地




この建物の反対側にも遺構等があった。


芝地区旧町名由来板

神明町(しんめいちょう)
 東は東海道線に接し、西は宮本町と三島町の一部に面し、南は浜松町一丁目に、北は宇田川町に臨む町域です。町名は、飯倉神明宮(いいぐらしんめいぐう)(現在の芝大神宮)の鳥居前にあったことに由来しますが、飯倉神明の社殿のある所ではありません。明治五年(1872)、 森忠儀の屋敷を合併しました。

銭座町(しんせんざちょう)
 寛永十五年(1638)、古来より網代場(あじろば)であったこの地を鳴海兵庫が新銭鋳造(しんせんちゅうぞう)の場所として拝借し、寛永通宝を鋳造していました。貞享三年(1686) 、 その跡地を能役者観世新九郎が拝領し、 その後しだいに町屋となって、 銭座の跡地であったことから町名になったと思われます。 江戸時代には俗に、 浜松町付近までを広く新銭座と呼んでいました。「芝」と冠称したのは本所、 深川にも新銭座があったためです。

宇田川町(うだがわちょう)
 宇田川町は柴井町と神明町との間に位置し、宇田川が市街を南北に二分していました。宇田川は桜川下流の別名であり、海へ注いでいた細流でしたが、今は埋め立てられています。町名の由来については、むかし、上杉修理太夫朝興(うえすぎしゅうりだいぶともおき)の家臣宇田川和泉守(うだがわいずみのかみ)の領地であり、天正年間(1573~1592) の後、 その子孫宇田川喜兵衛がここに住み、名主であったことから、町の名としたと伝えられています。

宇田川横町(うだがわよこちょう)
 町は四角形をした小市街であり、その町域は芝区の中で最も狭小でした。江戸時代、俗に大横町(おおよこちょう)と称し、宇宙川町続きの横町であるのことから宇多川横町と呼ぶに至ったようです。もとは宇田川町の一部でしたが、寛文四年(1664) 以降に独立の町として分離したものと推測されます。

三島町(みしまちょう)
 慶長三年(1598) に増上寺がこの地に移転したとき、 境内、 門門前地ともに当寺の拝領地となりました。 寛永の頃 (1624~1644) まで武家地であり、鍋島信濃守(なべしましなのかみ)、久留島越後守(くるしまえちごのかみ)、鍋島市之丞(なべしまいちのじょう)の三邸があったので三島町と名付けられたようです。 当時、 三邸地はいずれも増上寺地内に属していましたが、鍋島市之丞(いちのじょう)、久留島越後守の両屋敷の一部が三島町域となりました。









赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

 プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨(はりま)国(現、兵庫県赤穂藩森家の上屋敷でした。
 北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地の境に構築した堺堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。
 石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認されたところもありましたが、江戸時代の構築当初の姿をよく留めています。
 ここに用いられている石垣石は、主に堺堀に使われていたものです。








◆芝神明町町屋敷跡遺跡




東京都港区浜松町一丁目、かつてこの辺りは旧東海道 -現在の第一京浜国道ー を挟み相対している芝大門一丁目とともに、「神明町」と呼ばれていた町人居住地でした。
昭和62年、この地が約330年振りに大きく再開発されるにあたり、神明町当時の町並の様子や、この地に住んでいた町人の暮しぶりを記録に留めておくために、地中に残されていた遺跡の発掘調査が実施されました。
発掘調査は約4か月におよび、排水用の木樋、地割に用いた石垣、長屋の基礎、井戸跡、土蔵造りの基礎などの遺構や、陶磁器、漆器などの生活用雑器、寛永通宝に代表される貨幣、釘やかすがいのような建築用材など、多種多様な実に多くの遺物が出土しました。
このたび、住友浜松町ビル建設用地の一角に石垣の一部が移設復元されました。ここに使用されている石は、いずれも遺跡で検出された石垣に用いられていた間知石です。
都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメントが、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。







UHA味覚糖東京本社

看板のキャラクターが懐かしい。
「味覚糖株式会社」が会社名。
非上場企業。
本社は大阪にある。

『味覚糖株式会社(みかくとう)は、大阪府大阪市中央区神崎町に本社を置く、主にキャンディを中心とする日本の製菓会社である。みどり会の会員企業であり三和グループに属している[1]。一般的にはグループ企業を含めて「UHA味覚糖」(ユーハみかくとう)の名で知られている。 』
味覚糖 - Wikipedia


三和グループ
UCC上島珈琲の時にも出てきた。
2020/10/06 芝公園散歩 11 横浜ゴム本社/UCC上島珈琲㈱東京本部/新橋塩釜神社/塩釜公園/東京日野自動車本社/住友金属鉱山㈱本社 - ovanの社会科見学







◆北口横断歩道

右脇の建物が世界貿易センタービル
右斜め前に浜松町駅



歩道橋から鉄道が良く見える。



今度は左側に世界貿易センタービル







続く。

2020/10/12 増上寺散歩 01 新橋駅/東新橋一丁目交差点/日刊建設工業新聞社/ヨーロピアンギャラリー/イタリア街/芝消防署

24時間勤務アケで、新橋駅から増上寺経由で新橋駅まで散歩。



新橋駅から南下し、山手線沿いに浜松町駅を目指す。



◆新橋駅


スタートのJR新橋駅。


近くにあった地図







◆東新橋一丁目交差点


ガード下にあった地図。







◆日刊建設工業新聞社

90年の歴史を持つ建設専門新聞の全国紙なんだそうだ。
初めて知りました・・・・。
日刊建設工業新聞 » 会社概要







◆ヨーロピアンギャラリー

気になったので写真を撮ってみた。
帰ってからいろいろ調べてみたけれど情報が無い・・・・。







◆イタリア街






街並をイタリアっぽくしたっていうことなんだろうけど、イタリアに行ったことが無いのでよくわからない。







◆芝消防署

上記イタリア街の一角にあるため、ちょっとそれっぽいデザインだね。
園児が消防車を眺めていた。






続く。

2020/10/06 芝公園散歩 12 日比谷神社/共同通信社/日本テレビ/陸奥仙台藩伊達家上屋敷跡/新橋駅(ゆりかもめ)/新橋駅(JR)

どんどん東へ進む。
JRの高架をくぐって線路の東側を散策する。
そういえば高架の写真を撮るの忘れたなあ。



◆日比谷神社


境内稲荷社








共同通信社



前に一度訪ねたことがある。
2016/02/15 part2 共同通信社「ニュースアート」 - ovanの社会科見学

今調べてもやっぱり公式のHPはないようだね。







日本テレビ



日テレ大時計

時間が来れば派手に動きそうだね。
また今度来てみよう。



「誰からも愛される恒久的なシンボルの設置」を目指して、スタジオジブリ日本テレビ共同プロジェクトを立ち上げ、足かけ6年をかけて制作したからくり時計です。







陸奥仙台藩伊達家上屋敷

日テレ大時計前から下に向かって撮った写真。
今の日テレは「陸奥仙台藩伊達家」の敷地の中になる。


江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡

 ここは、汐留遺跡の発掘調査によって仙台藩上屋敷の表門の遺構が発見された場所である。
 寛永十八年(1641)に設けた屋敷当初下屋敷として用いられたが、延宝四年(1676)には上屋敷となり以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点
となった。
 元禄十五年(1702)十二月十五日、本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥もてなしを受けたといわれる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られたた粥は、仙台名産の仙台糒(ほしいい)(粳米(うるちまい)を蒸して乾燥させた保存食)であった。




古地図だとかなり広い敷地だったんだね。







◆新橋駅(ゆりかもめ)







◆新橋駅(JR)

ゴールのJR新橋駅。




そんなに歩いていないんだけど、ものすごい史跡の数だった。
芝公園愛宕山は急坂が多く、やはり疲れた。
芝公園はトイレが多く、休憩する場所はたくさんあった。
だって公園だものねw

2020/10/06 芝公園散歩 11 横浜ゴム本社/UCC上島珈琲㈱東京本部/新橋塩釜神社/塩釜公園/東京日野自動車本社/住友金属鉱山㈱本社

細い路地を東へ歩いていく。
西新橋に本社を置く会社が多いね!
調べればまだまだありそうだね。



横浜ゴム本社

東証一部上場企業。
横浜ゴム株式会社(よこはまゴム、英文社名 : The Yokohama Rubber Co., Ltd.)は、古河グループのタイヤ・ゴムメーカー。2016年度のタイヤ販売額シェアで、日本国内ではブリヂストン住友ゴムに次いで第三位。世界では第八位である。
ヨコハマタイヤのブランド名で知られる。ドイツのコンチネンタルタイヤの販売元のひとつ(かつては総輸入元でもあったが同社の日本法人設立に伴い、販売代理店となる)。 』
横浜ゴム - Wikipedia







UCC上島珈琲㈱東京本部

非上場なんだね。
ユーシーシー上島珈琲株式会社(ユーシーシーうえしまコーヒー、英: UCC UESHIMA COFFEE CO., LTD.)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く、コーヒーを中心とした飲料・食品メーカー。みどり会の会員企業であり三和グループに属している。 』
UCC上島珈琲 - Wikipedia


三和グループ(さんわグループ、英語:SANWA GROUP)は、旧鴻池(こうのいけ)財閥と旧山口財閥が、戦後の財閥解体による再編で発足させた企業グループである。』
三和グループ - Wikipedia

企業の数がスゴイ・・・・。
UCCを探すのにかなり苦労したよ。







◆新橋塩釜神社

盬竃神社(塩釜神社


境内稲荷社


参道


鳥居







◆塩釜公園




 江戸時代、この公園の場所は、仙台藩主伊達家の中屋敷内にあり、鹽竈(しおがま)神社の境内になっていました。
 この神社は、はじめ元禄八年(1695年)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に、領地の鹽竈神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政三年(1856年)に移転され、邸内社として私に祀っていました。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けました。
 明治になり、大名屋敷がなくなってからも神社は存続しましたが、大正12年関東大震災の後、災害時の避難場所の確保と町民の安息や子供の遊び場もかねて、昭和5年に東京で唯一の町立鹽竈公園として開園しました。
 その後昭和46年、港区が区立塩釜公園として整備しましたが、敷地拡張に伴い、この度、全面改造を行いました。


芝地区町名由来板

愛宕下町(あたごしたちょう)
 里俗に愛宕下と呼ばれていたので、これを町名としたと伝えられています。明治五年(1872)、酒井下野守(さかいしもつけのかみ)、 大鳥備後守(おおとりびんごのかみ)、 水野山城守(みずのやましろのかみ)の屋敷を合併して愛宕下町一丁目、苗木藩遠山美濃守(なえぎはんとおやまみののかみ)と岡山藩池田氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町二丁目、 下妻(しもつま)藩井上氏の屋敷ほか武家地を合併して愛宕下町三丁目、 仙台藩、小諸(こもろ)藩、柳生(やぎゅう)藩の屋敷を合併して愛宕下町四丁目としました。

露月町(ろげつちょう)
 むかしは日比谷門内にあり、当時は老月(ろげつ)村と称したようです。徳川氏が江戸城を修築するにあたり、民家をこの地に移して市街地を創立して老月町と称しましたが、 後に露月町と改めたと伝えられています。一説には、露月は天正年間(1573~1592) の里老(りろう)の名であるとも言われます。 明治三年(1870)、付近の土地に小石川金杉町と堺町の住民が移り、露月町新地としましたが、明治九年(1876)、これを露月町に合併しました。

柴井町(しばいちょう)
 町の起立について詳細は不明ですが、一説には、元和年間(1615~1624)、この地の芝原(しばはら)ではじめて劇が演じられ、寛永年間(1624~1644)、芝居小屋は中橋(なかばし)に移り、その跡に開かれた市街地が芝居町(しばいちょう)で、後に柴井町と改めたといいます。 また一説には、 「鎌倉河岸の小芝居が残らず芝芝居に移された」、「芝居町の芝居小屋から出火して一同この地を引き払った。後、柴井町と改められた」とも伝えられています。


伊達騒動と「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」

 江戸時代、塩釜公園および塩釜神社のあるこの場所は、 仙台藩番主伊達家の中屋敷でした。
(詳しくは公園内園名板横の 「塩釜公園の沿革サイン」をご覧ください)
この塩釜神社は、 はじめ元禄八年 (1695) に第4代藩主伊達綱村(つなむら)によって東新橋にあった上屋敷へ分霊を勧請されたといいます。 網村は伊達政宗の曾孫にあたる人物で、 領内の防風林設置や運河開発、 産業振興、 儒需学を奨励し藩史の編纂に尽力するなど「仙台藩中興の英主と讃えられました。
 しかし、綱村は万治二年(1660)、 わずか2歳で藩主となり、寛文十一年(1671) には伊達騒動(寛文事件)が勃発して改易の危機に立たされるなど平坦な人生ではなかったようです。

伊達騒動(寛文(かんぶん)事件)

  • わずか2歳の綱村には、 大叔父にあたる一関藩主伊達兵部宗勝(いちのせきはんしゅだてひょうぶむねかつ)(伊達兵部派)と、 叔父の岩沼

藩主田村宗良(いわぬまはんしゅたむらむねよし)が後見人となりましたが、 宗勝が実権を掌握して家老の原田甲斐宗輔(はらだかいむねすけ)らと藩権力の集権化を行うと、伊達氏一門(伊達安芸派)と対立します。そんな中、 一門の伊達安芸宗重(だてあきむねしげ)と宗勝の甥伊達式部宗倫(だてしきぶむねとも)との所領紛争が起き、 伊達安芸は幕府に一件を上訴します。
 寛文十一年(1671)、 評定を行うため、関係者が大老酒井忠清(さかいただきよ)邸に集められますが、原田甲斐はその場で伊達安芸を斬り殺してしまいます。しかし原田甲斐も安芸派の柴田外記朝意(しばたげきとものり)らに討ち取られ、柴田外記も斬りあいの傷が元で死亡します。
 この事件の処理として、伊達兵部派、伊達安芸派ともに処罰が下されましたが、綱村自信は若年だったことからお咎めなしとされ、改易は免れました。
 「伽羅先代萩」はこの伊達騒動を題材に歌舞伎や人形浄瑠璃で演じられたものです。


近くにあった地図







◆東京日野自動車本社

『東京日野自動車株式会社(とうきょうひのじどうしゃ)は東京都港区にある日野自動車の自動車ディーラー。』
東京日野自動車 - Wikipedia

日野自動車とはまた違うんだね。
こちらはディーラーさんの会社だった。







住友金属鉱山㈱本社

東証一部上場企業。
住友金属鉱山株式会社(すみともきんぞくこうざん、英文:Sumitomo Metal Mining Co., Ltd.)は、住友発展の基礎となった別子銅山や世界有数の金鉱脈がある菱刈鉱山などを経営する、住友グループ非鉄金属企業である。住友財閥の源流企業であり、住友グループ広報委員会及び白水会に属する企業である。』
住友金属鉱山 - Wikipedia


白水会(はくすいかい)とは、住友財閥の直系、準直系、またはそれらから分離した企業など、住友グループの中核的会社の社長によって構成される社長会のことである』
白水会 - Wikipedia









続く。