2018/08/19 護国寺散歩 07 旧東青柳町/富士見坂/旧大塚町/金栗足袋発祥之地/小石川東京病院/西信寺/善心寺

護国寺の後は丸の内線新大塚駅に向かう。
まずは富士見坂を東へ進む。



◆旧東青柳町




 もと、小石川村の内であった。
 五代将軍綱吉が、生母桂昌院の願により護国寺を建立した。元禄10年(1697)護国寺領となり、町屋にしたが家作人がなく、後幕府が再建して奥女中の青柳という者に家作を与えた。青柳の名をとり町名としたという。
 護国寺の仁王門前、音羽通りをはさんでの旧音羽一丁目の両側、東の方が東青柳町、西の方が西青柳町となった。
 延享2年(1745)町方支配となった。
 護国寺前から江戸川橋までの一直線の道路(音羽通り)は、江戸時代から道幅も広く整然としていた。将軍の護国寺への御成の路で、1千人以上の供が従ったという。




◆富士見坂



坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸時代の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。
   とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち
                             会津八一(1881-1956)
   この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
                             窪田空穂(1877-1967)



◆旧大塚町



 もと小石川村の内、寛永6年(1629)町屋が開かれた。町名は、大きな塚があったので大塚と名づけたといわれる。
 この塚は、貞静(ていせい)学園の北裏から三井銀行研修所内(大塚1-3)にあった。一説には古墳と言われる。
 明治5年、付近の地を併せて町域は拡張子たが、そのうちの多くは、安藤長門守の下屋敷であった。ここに陸軍弾薬庫がおかれたが、昭和4年御茶ノ水から東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移った。



旧町名板のすぐ裏にフジヤがあった。
かなり大きい?



◆金栗足袋発祥之地

分かりづらい・・・。
ウロウロしたので奥に写っている警備員さんに不審がられただろうね(w



「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作
金栗足袋とは黒坂辛作という人が競技用に作ったシューズ。
金栗四三という選手を支えたとのこと。
金栗はストックホルムオリンピックに出たが、熱射病で倒れ、付近の農家で介抱された。
「競技中に失踪」という扱いになっていたが、ストックホルムオリンピック開催55周年の式典が開催された際に招待されて、競技場をゆっくり走ってテープを切った。
タイム、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3
オリンピック史上最も遅い記録となったんだそうだ。




◆小石川東京病院

右隣にあるのは小石川消防署大塚出張所。




◆西信寺




「北小路采女墓所
WEBで調べると日本における理美容業の祖といわれるとのこと。
1335年に亡くなられたというから、かなり昔のお話だね。





旧大塚上町

 もと、小石川村に属した、元禄年間(1688〜1704)以来護国寺領大塚上町、伝通院領大塚上町の二か町であった。護国寺領は正徳3年(1713)、伝通院領延享2年(1745)町奉行支配となった。
 明治5年、護国寺領と伝通院領および大塚町飛地を合併して、たんに大塚上町と称した。
 町名は、大塚仲町および大塚坂下町の上にあるので、大塚上町と名づけた。
 町内の南端の現・大塚3丁目の交差点は、海抜が28.9メートルで区内の幹線道路では最高地点である。
 むかしはここから富士山がよく見えたので、護国寺へ下る坂を富士見坂という。




◆善心寺



天然記念物「古代之蓮」と碑に刻まれている。
wikiで調べると「大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。 」
と書かれている。






続く。
この回、調べ物が多くめっちゃ疲れた(w