2018/04/14 台東散歩 01 神田駅/神田須田町一丁目/万世橋/末広町駅/松富町/神田栄町

24時間勤務アケで、台東区の台東周辺を散歩。
区境を行ったり来たりしたが、ほぼ台東区のエリア。
最初だけ千代田区が多い。



◆神田駅

スタートの神田駅



神田須田町一丁目

この広い道路は歩いたことが何度かあるがいつもは車道の反対側を歩いていたのでこの由来版には気が付かなかった。



江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596年〜1615年)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には「すた町」と記されています。
江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原(やないはら)土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。




万世橋

今までにも何度もわたって、日記に書いた橋。
詳細はこちら
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20170815/1503050085




末広町駅

東京メトロ銀座線の駅




◆松富町



江戸時代の外神田四丁目周辺には武家屋敷のほかに、商人や職人の住居が立ち並ぶ「松下町二丁目」「松下町三丁目」、「永富町三丁目」と呼ばれる町屋がありました。明治二年(1869年)、これらの三町が合併し、さらに武家屋敷も編入して新しい町、松富町が誕生しました。新町名は、松下町と永富町から一文字ずつとってつくられたのです。
松富町を考えるうえで欠かせないのが、町の真ん中を走るメーンストリートです。現在の中央通りにあたるこの道は、江戸時代、将軍が上野の寛永寺へ参詣するときに行き来する道でもありました。とくに毎年正月十日に行われた「正月御成」では、将軍は必ずここを通ったので、道の名前まで御成道と呼ばれるようになりました。ちなみに、将軍御成の当日には、沿道の家は火を使うことも許されないほど、厳重な警備体制がしかれました。
町内には昭和四十年(1965年)ころまで倉稲魂命(うかのみたまのみこと)三座を祭る「三社稲荷神社」がありました。大変住民に親しまれたお稲荷様で、毎月二、五、十八日には、必ずお祭りが開かれていました。




◆神田栄町



ここはかつて、神田栄町と呼ばれていました。
江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、幕末のころの絵図には、この一帯が豊前小倉(ぶぜんこくら)藩小笠原家の中屋敷となっていたことが記録されています。ちなみに中屋敷とは、上屋敷(本宅)に対する控えの屋敷のことで、跡継ぎなどが居住しました。
この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治二年(1869年)十二月、神田相生町)から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町(かんだたけちょう)、神田平河町(かんだひらかわちょう)、神田松永町)などに、防火のための空き地(火除地)を設置します。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ができたのです。「栄」という名前は、住民が町の繁栄を祈願して付けた町名であるといわれています。
明治四十四年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施で神田亀住町や神田元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。




続く。

2018/04/14 台東散歩 02 神田元佐久間町/神田亀住町/黒門児童遊園/燕湯/亀住稲荷神社/仲御徒町駅

北東方向へ散歩する。
04/12に通った道もあった。



◆神田元佐久間町




なんか見たことがあると思っていたら、やはり4/12に来ていた。
詳細はコチラ↓
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180412/1523767251



◆神田亀住町



江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉(ぶぜんこくら)藩小笠原家の中屋敷となっていました。
神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地(うえのちょうだいち)が、明治二年(1869年)に合併してできた町です。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
この年の十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、翌三年(1870年)、小笠原家の屋敷跡を代地(だいち)として与えられ神田川北岸より移転してきました。
明治四十四年(1911年)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947年)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964年)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。
町内にある亀住稲荷(かめずみいなり)神社は、豊前小倉藩中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛着をいだき、稲荷のための保存講を組織し管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。




◆黒門児童遊園



リンゴのオブジェがいくつか確認できる。



日本発祥のリンゴに関することわざはなかなか見当たりませんが、欧米諸国のことわざや言い回しにはリンゴがよく出てきます。
人々がリンゴをどう扱ってきたのかが読み取れる面白い例をご紹介します。


<1日一個のリンゴは医者を遠ざける>

リンゴを食べていれば医者にかからなくてすむ。
健康につながるという意味のことわざです。
整腸作用や高血圧の予防など、現代ではその効果が科学的にも証明されています。
ちなみにこのことわざ、イタリアでは「リンゴ」の部分が「トマト」に置き換わります。
お国柄が出ておもしろいですね。
日本にも「柿が赤くなると医者が青くなる」なんてことわざがあります。



<私の目の中のリンゴ>

古くから、目の中野瞳(中心の黒い部分)のことを丸いリンゴに居立ててappleと呼ぶそうです。
目にとって瞳の部分は必要不可欠なものなので、
「かけがえのない大切なもの(ひと)」という意味です。
左の文での使われ方も考えると、リンゴを「たいせつなもの」とするのは、ただの比喩ではなく、リンゴそのものも生活するうえで大切な果実であったように思えますね。


旧西黒門町

 東叡山寛永寺が創建されたのにともない、嘉永三年(1626)に同寺の黒門町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備孝が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。
 上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869)御成道を境にして東西に二分された上野黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。
 明治五年、上野にし黒門町伊勢亀山藩上屋敷武家屋敷を合併して町域を広げ、同四十四年には上野の二字を略し、西黒門町となった。



◆燕湯



◆亀住稲荷神社



仲御徒町駅

東京メトロ日比谷線の駅。



続く。

2018/04/14 台東散歩 03 金刀比羅神社/金刀比羅神社/佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡/佐竹商店街/三味線堀跡/櫻稲荷

前の日記のエリアから東へ進む。
ちょっと順番間違えて遠回りになった。



金刀比羅神社

柵の扉が施錠されてて、中には一歩も入ることができなかった。
神社名は確認できなかったが、google mapには「金刀比羅神社」とあった。



金刀比羅神社

こちらも金刀比羅様。
金刀比羅さんがこんなに近くにあるのは珍しい。






何かの準備をしていた。




◆佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡

江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した、東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄二年(一六八九)もしくは翌三年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号は曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永三年[一七七四]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(一七八一〜八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。




佐竹商店街

この写真の右下あたりに上記の「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡」がある。




◆三味線堀跡




 現在の清洲橋通りに面して、小島1丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋3丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明3年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に3階建ての高殿が建設された。大田南畝(おおたなんぼ)が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
 三階に 三味線堀を 三下り 
   二上り見れど あきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上こうつうの発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。



◆櫻稲荷神社











続く。

2018/04/14 台東散歩 04 千代田稲荷/旧二長町/朝草・鳥越きりしたん殉教記念碑/カトリック浅草教会/蓬莱園跡

先程のエリアから南へ歩いていく。
ただ、ここでもちょっと道順を間違えて、行ったり来たりした場所があった。



◆千代田稲荷神社










◆旧二長町




 町の起立は明治五年(1872)である。対馬の宗家厳原藩伊勢国の久居に陣屋を構えた久居藩の邸地そして周辺の武家地を合併して二長町とした。
 町名はこの地が江戸時代より「二丁町」と呼ばれていたことに由来する。二長町とは、この地を東西に横切る小路につけられたとされているが、その由来はあきらかではない。この小路が東西に二丁あったからではないだろうか。
 江戸時代は武家地であったため町名が付されてなく、町としての発展は二長町となった明治以降である。特に明治二十五年(1892)浅草猿若町から市村座がこの地に移転して来てから賑わい始め、二長町の名は東京中に知れ渡った。明治三十年代頃、東京郵便局厩舎課があり、市内に郵便物を輸送する赤塗りの馬車が発散集合していたことも「新撰東京名所図会」は述べている。
 昭和三十九年(1964)住居表示の実施で、蔵前橋通りの南側が台東一丁目に、北側が同二丁目に編入された。




◆朝草・鳥越きりしたん殉教記念碑



この地に鳥越川が流れ、隅田川にそそいでいた。
この今は暗渠となっている鳥越川のほとりで江戸時代の初期 1613年 8月 16日、小伝馬町の牢獄に捕らえられていた者と共に 8名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首された。
同じく翌 17日には 14名、9月 19日にはさらに 5名がこの鳥越川のほとり、甚内橋より東の地にて処刑された。
これらの、幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつまでも忘れぬよう、この地に、この記念碑を建立した。




カトリック浅草教会




◆蓬莱園跡






 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代、肥前国(現、佐賀県長崎県の一部)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、別邸を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命名された。
 明治40年(1907)刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東都名園中現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2千6百坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていた。
 この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけである。

2018/04/14 台東散歩 05 堀北公園/医学館跡/金網稲荷神社/和泉公園/防火守護地の碑/美倉橋ガード

どんどん南下する。
南下するコースは地図が逆になるので、道を間違えやすい(w



◆堀北公園


堀北小学校


堀北小学校の碑


旧浅草向柳原町

 この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家地屋敷であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていった。向柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872)に誕生した。
 町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。
 肥前平戸藩松浦邸内には「蓬莱園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残をとどめている。



◆医学館跡(旧躋寿館跡)



 江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。
 明和二年(1765)、幕府奥医師多紀元孝(たきげんこう)が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館(せいじゅかん)から出発、寛政三年(1791)に、幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。文化三年(1806)三月、大火に遭い焼失、同年四月に、前方の旧向柳原一丁目に移転、再建された。
 敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四年(1843)には寄宿舎を設け、全寮制とし、広く一般からも入学を許可し、子弟育成をはかるなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。



◆金網稲荷神社





◆和泉公園

この公園は東京食糧事務所跡地を昭和46年(1971)秋葉原東部地区の8町会と佐久間小学校PTA、幼稚園母の会が協力し、地域の緑の広場として、又、災害時に於ける避難場所として活用すべく4年有余の年月をかけた住民運動が実り、千代田区が「和泉公園」として整備した。
之れを記念して此処に公園誕生の碑を建立す。



◆防火守護地の碑(和泉公園内)



この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります

佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部


関東大震災後、この土地の人たちは約30時間、バケツリレーなどで必死に火事を食い止めたとのこと。
すごいね・・・。



◆美倉橋ガード

このガードをくぐって山手線を渡る。




続く。

2018/04/14 台東散歩 06 草分稲荷神社/佐久間公園/藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々/秋葉原駅/聖橋

先程のエリアから南西方向に歩く。
秋葉原を通り、御茶ノ水から電車に乗って帰る。




◆草分稲荷神社






◆佐久間公園



佐久間小学校跡



神田佐久間町三丁目



江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来するとされています。
江戸は火事の多い町として知られていますが、とくに享保年間(1716年〜1736年)には、幾度となく大火に見舞われました。そのたびに町の一部に火除地や代地が設けられて南北に分断され、住民は移転を余儀なくされました。
大正十二年(1923年)の関東大震災では、住民が一致団結して火事と闘いました。猛烈な勢いで襲ってくる火の手に、住民たちは力をあわせてバケツリレーをおこない、町を守りました。三十時間にもおよんだ命がけの消火活動のかいあって、佐久間町から和泉町(いずみちょう)にかけての一帯は奇跡的に延焼をまぬがれたのです。
この由来板が立っている佐久間公園は、ラジオ体操会発祥の地としても知られています。「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されてまもなく、昭和五年(1930年)に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操会を始めました。これを記念して同公園には由来を記した碑が建立されています。
神田佐久間町三丁目は、江戸時代から続く由緒ある町名です。長い歴史に培われた強い連帯感で結ばれた住民たちは、力をあわせて町を守り抜いてきたのです。






神田佐久間町四丁目/ラジオ体操会発祥の地



神田佐久間町四丁目

佐久間町の町名は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来すると伝わっています。実際この地域は、江戸でも早い時期から商人や職人が集まる町でした。
一方でこの地域は、火事が多かったことも古文書に記されています。享保三年(1718年)には、火災で焼け落ちた町の一部が防火のための火除地に定められ、そこに住んでいた人々は元誓願寺前(もとせいがんじまえ)(現在の神田東松下町周辺)に移動するように命じられます。しかし、町の人々にとって河岸(船荷を上げ下ろしする場所)に隣接したこの地から離れるのは好ましいことではなかったようです。そこで奉行所に願い出て、たき火をしないことや、建物の間を空けるといった条件つきで、火除地の一部の使用許可を得ました。その結果、この界隈は商人や職人たちの町として発展を続け、明治維新を迎えています。
明治二年(1869年)、神田佐久間町四丁目元地、神田佐久間町四丁目裏町)、そして神田富松町元地が合併し、神田佐久間町四丁目となり、明治五年(1872年)には隣接していた武家地を編入しました。明治四十四年(1911年)の町名変更でいったん佐久間町四丁目となりますが、昭和二十二年(1947年)、神田区麹町区が合併して千代田区となると、ふたたび神田佐久間町四丁目となりました。




ラジオ体操会発祥の地

 ラジオ体操は 昭和3年11月 簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものであるこれがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった
 この地は 当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に全国に先駆けて「早起きラジオ体操会」を始めたゆかりの地である
 ラジオ体操50年に当りこれを顕彰する




◆藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々




江戸時代、このあたりは伊勢国津藩(いせのくにつはん)主、藤堂和泉守(とうどういずみのかみ)の上屋敷でした。
大名屋敷の多くには大小様々な庭園があることから、ここは藤堂家の植木職を代々務めた伊藤伊兵衛(いとういへえ)に円のある樹木を植えています。
江戸では世界に先駆けて園芸が隆盛し、将軍から大名武士、庶民に至るまで樹木や草花の鑑賞、栽培が流行しました。伊藤伊兵衛(いとういへえ)は江戸で最も有名な植木屋であり、伊兵衛の名を世襲しましたが、元禄から享保期(1600年代後半〜1700年代前半)に活躍した三代伊藤伊兵衛三之丞(いとういへえさんのじょう)、五代伊藤伊兵衛正武(いとういへえまさたけ)(四代目説もあり)が特に有名で、見識技量に優れ、ツツジやモミジなど山野に自生する植物を元に様々な新種を作出すると同寺に、数多くの園芸植物の図解入りで記載した多くの著作を起こしてます。三之丞(さんのじょう)が元禄5年(1692)に出版した「錦繍枕(きんしゅうまくら)」は世界初といえるツツジ図鑑です。100年余り後、シーボルトやフォーチュンといったヨーロッパの植物学者やプラントハンターらが来日し、日本の植物とその多様性をヨーロッパに伝えました。
そのことからも彼らは世界的な園芸の発展に貢献したと言えます。
江戸時代から続く、世界に誇る園芸文化を後世に伝えるべく、ここには30種類の日本在来種および園芸種の樹木を植えています。




秋葉原駅




◆聖橋

最近よく通る橋。
相生坂から撮ってみた。




御茶ノ水駅でゴール。
そんなに暑いわけでもなく、良い散歩日和だった。